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グッバイシンゾー 2010年代の終わり

第98代内閣総理大臣安倍晋三が辞任した。2012年末の衆院選から7年半、日本の首相は安倍晋三だった。

 2010年代に青春を過ごし身として振り返れば、単に為政者である以上に「日常」の一要素だったと感じる。ニュースでその顔を見ないことはないし、社会的な問題に何らかのかたちで関わっていた。

 2019年に元号が令和となり、2020年に首相が変わる。もう自分の知っている当たり前の世界はないのだと、そして真に新たな時代になるのだと思うと寂しさと不安を感じる。

 自分でも笑ってしまうが、退屈で憂鬱で言いようのない苛立ちを感じていた2010年代が今となっては愛おしい。安倍晋三が総理大臣ではなくなることで、ようやくあの時代は対象化可能になった。

 日常は存在しない。「日常」と呼ぶ営みの積み重なりで、絶えず世界は生成変化している。日常というのはある種の永遠概念だ。現実的には不可能なのだ。しかし、我々は世界をそのように認識してしまう。日常は、ただ死によってのみそれが存在しないことが認識される。死は人生のそれであり、ある体制のそれである。

ミネルバの梟は夕暮れに飛び立つ。

 哲学あるいは学問はある時代を追随的に表現する、ということだが、結局時代は時代が終わったときにのみ時代として認識可能である。本当に愚かなことだが、永遠はないのだと何かが死ぬたびに感じる。これを何度も繰り返す。

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予感

 平成の政治が終わり、真に平成という時代認識が可能となった。日本以外には、平成という概念は全く関係ないものだが、数奇なことに冷戦終結から新たな冷戦までの戦間期に合致する。90年代のAIブームから10年代後半のAIブームへ、地球環境の加速的な変化。

失われた30年という言葉がある。

 失われた時代ではあるが崩壊や退行の時代ではない。雇用条件などを別としてその経済規模は、維持されている。しかし、いわゆる中流の崩壊や派遣社員の増加、さらには急速な人口減少が見込まれ、いよいよ崩壊の兆しが見えてきた。

(個人的な感想を述べれば、資本主義とは外部というフロンティアを必要とする増殖的活動であり、例えば市場におけるモノ不足として、それが残っていた時代には成長できて当然なのだ。ただ時流に乗って稼いだだけの人間に、平成を馬鹿にする権利はない。70年代以降、市場におけるモノ不足は解消されていくのだからラディカルな技術革新や戦争でも起きない限り需要は増加せず、従前のような成長もない=外部の限界)

 つまり、平成は停滞の時代ではあったが、崩壊の時代ではなかった。しかし現在、20世紀の遺構が立ち行き、いよいよ変化が見えてきた。

スクリーンショット (4)

過去60年の日本、アメリカ、OECDのGDP成長率
OECD Data https://data.oecd.org/gdp/real-gdp-forecast.htm#indicator-chart

 その変化の中で、人間概念も変化する。
 停滞する資本主義、自然、AIにより相対化される人間。強力な他者によって、旧来の人間像が維持できなくなっている。18世紀以後、人間概念を、人間自体ではなく、人間以外からここまで考える時代はないのではないだろうか(レヴィストロース来の流れはあるが、ここまで現実的になるのは初ではないだろうか)。

 「ポスト・ヒューマン」「人間以後」という言葉は象徴的だ。相関主義的ではない、外部・他者としての世界という時代感覚がある。

『天気の子』

 個人的な経験を語れば、2019年に公開された『天気の子』は平成の終わりを象徴するものだと思う。脱平成的要素が非常に濃い。

 2016年『君の名は。』のブームは衝撃であったが、『天気の子』がその流れを継いだことが何より衝撃であった(『君の名は。』は平成の作品だが、結果的には平成末期であり過渡を表すのだと思う)。
 アニメという媒体がこうも一般的になり、映画館で放映され、あろうことか若者に限るとは言え大ヒットしたのだ。そしてそれは一過性のものではなかったのだ。相対的に市民権を得てきたとは言え、ここまでのヒットは平成の世ではありえない。

 そして何よりその内容だ。
 ボンボンの描いた汚なさだが、それでも新海誠という作家が反人間的、非人間的時代像を示したのには驚いた。超越的な災害により相対化される人間、綺麗なだけではない現代の都市。今までの、綺麗な人間像・都市像とは全く異なる。特に対照的であるのは、前作『君の名は。』とで東京の描写が大きく異なるという点だ。
 オシャレなカフェではなく、狭くて汚いネットカフェ。バイト先は最低賃金のハンバーガーチェーン。暖かな交流は限られ、誰もが心に余裕を持たない(しかしそのような人間であっても所帯を持つという点で、この状態は何も特別ではない。正しく現代の人間が誰しもそうである。そして、前作のキャラクターが登場するという連続性も踏まえれば、前作のB面であると言える)。

 ラスト、一瞬映った「人新世」という言葉は作品の解題となる。人の活動が地質時代的区分を与えるということだが、人は自らの活動により大洪水を起こしてしまうのではないか。そのような懸念である。

(しかし、いわゆる地球環境の変化が真に人間の活動により影響されているのか、あるいは変化の要因として人間の活動が真に最も大きなものであるかは疑問だが。『天気の子』本編に倣えば、人間の力が世界を決定的に変えるほどのものなのだろうか。変えたのだという罪を得ることで自己措定しようとするのは傲慢であり、虚しい。)

 現代に対する新海誠の感覚として、大洪水、破滅のイメージがあり、それは近年多発する異常気象もあって人々に共感されるものだと思う。そしてこのことは既に述べたように、停滞から崩壊という変化にリンクする。
 つまり、全体的に人類の活動が変わっていくのだということだ。

(本作については多くのフックがあり、ここでは語り切れないため、別の機会に書こうと思う。しかし、あらかじめ少し書けば、2000年代エロゲ及びその前提となる90年代サブカルの克服とノスタルジーがある。特に重要であるのはノスタルジーだ。ヴェイパーウェイヴのような80年代から90年代前半へのそれではなく、2000年代へのそれであるのは驚いた。ただし、ノスタルジーが受ける心理は同様だと思うが。そしてつくづく新海誠という作家は娯楽作品を作れるようになったのだと思う。)

平成にさようなら

何もかもが変わってしまうような予感がある。

おそらく平成を懐かしむ時がやって来る。
大したことのない時代であったが、悪い時代ではなかったと。

何もが変わった後、自分がどうなっているのか、世界がどうなっているのか、見当もつかない。

生きていればまた会えます。
だなんて簡単に言いはしない。それは刹那に永遠を見せるものだけの言葉だ。もう会えはしないものがある。それを認めなければならない。

だからこう言うほかない。

さらば、平成とすべての青春達。