日記⑥

20230321
「人間の本質とは暴力ですよ」気づくとわたしはそう口にしていた。目の前の男がなにかを言いたげに開口したが、ふいに口をつぐんでグラスからビールを飲んだ。「人間とは暴力の権化である」玉音放送のごとく脳内で響き渡る声、わたしは近頃暴力というものに近づきすぎただろうかと己を冷笑した。
 坂口安吾の『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』、谷崎潤一郎の『少年』、夢野久作の『志那米の袋』、もしくは遠藤周作の『白い人』あたり。それらの作品に共通するものに、暴力があると思う。暴力とは何か?暴力の本質とは何か?わたしは近頃よく考える。
1.『桜の森の満開の下』で女が首遊びに耽る気持ちを考えてみる。退屈な人間と暮らすより首にしてしまえば良いだろうか。『夜長姫と耳男』で、ヒメは言う。「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。」ヒメが蛇を求め、人が死ぬ姿を喜んだのはなぜか。死とは終わりのない退屈の救済になり得るか。わたしたちが本質的に満足を得るとき、そこに暴力があるのではないか?
2.『少年』は谷崎作品の中でも完成されたマゾヒズム作品だと感じる。他人からの暴力そして侮蔑が極限に達したとき肉体的快楽・娯楽慰安へと変わる心理。その心理は病的でありながらも谷崎の描く暴力は官能的であって、ある種快楽の本質を感じる。
3.『志那米の袋』において暴力とは敵意の現れではなく、むしろその逆である。「そうして最後には自分が可愛いと思っている相手を、自分の手にかけて嬲り殺しか何かにして終わなくちゃ気がすまない」これは道楽であって必然的な愛の結果である。暴力が愛の証明であるからこそ、「世界一贅沢な一生に一度の遊び」があるのだ……心臓と心臓のキッス!
4.『白い人』が描くのは人間の本質である。「私の肉慾の目覚めは虐待の快楽を伴って、開花したのである。」【私】は知る、暴力のみが己を真に癒すものであると。ジャックを拷問することで己を再確認したのである。「あんたがいくら十字架を背負ったって、人間は変わらないぜ。悪は変わらないよ」人間にとって暴力とは何だろうか?性善説も性悪説もなく、人間にはただ暴力という避けがたい魅力を持つ悪魔が憑りついているだけなのではないだろうか?
坂口が描く暴力の先には救いがあって、谷崎の暴力には快楽があり、夢野の暴力には愛があり、遠藤の描く暴力とは人間の本質だ。
わたしはナチや全ての独裁、全ての戦争を考える。小説や漫画や映画を考える。わたしという生き物を考える。暴力を中心として回る世界を考える。暴力とは果たして何だろうか?

 ちなみに性癖に刺さるという意味では坂口安吾と谷崎潤一郎がずっと好き。坂口は『女体』そして続編の『恋をしに行く』、谷崎は『痴人の愛』が特に好き。このふたりの作風は妖婦がよく出てくる点で似ている気がするが、明確な違いはやはりマゾヒズムの有無であろう。
1.坂口安吾の『女体』そして『恋をしに行く』これはかなり……かなり良いものだ、と思った。近所の喫茶店で貪るように二周読んだ。信子が好きだと思った。背筋がぞくぞくした。「俺は恋がしてみたい。肉体というものを忘れて、ただ魂だけの。そのくせ盲目的に没入できる激烈な恋がしてみたい。」谷村がそのように考えるときに思い浮かぶのが信子という女なのだが、信子は少女であり妖婦である。坂口作品の特徴として女は恐ろしくあればあるほど無垢性が際立つ。「愛されるばかりで愛さないものは誰?冷たくて、人を迷わす機械は誰?永遠に真実を言わない人は誰?」処女と非処女の違いや少女と妖婦の違いとは何だろうかとすら思える……それは秘密の有無か。信子を全て暴けば谷村は安堵するのか?信子を信子たらしめているのは秘密に他ならないのではないか。「僕はもう君の裸体を見ているときしか、安心できなくなるだろう」と谷村は言う。わたしは肉体に縛られた我々を哀れに思う。信ちゃん、わたしはあなたを知りたいようで何にも知りたくないのだ。しかしこれが恋なのだ、とも思う。
2.『刺青』の娘や『少年』の光子、そして『悪魔』の照子。谷崎の中で形作られていったこれらの女性像は後の『痴人の愛』のナオミ、『春琴抄』の春琴など多くの女を生み出した。わたしはこれらの女たちが好きだ。美しく恐ろしくサディストな妖婦たち。谷崎作品がかなり好きなので色々と読んでいるが、やはり悪魔主義的な作風の頂点とも言えるのが『痴人の愛』であると思う。少女と妖婦の違いとは秘密であると先ほど述べたが、それは谷崎の『秘密』でも述べられていることだ。秘密が妖婦を妖婦たらしめているのであって、愚かにも彼女を愛する者は本質的には妖婦を愛するのではなく秘密を愛しているのだと思う。恋とは知りたいと思う気持ちだろうか?それとも知らないということだろうか?ならば恋とは信仰や恐れと酷く似ている。我々は分からないことを崇拝し恐れる……。ナオミちゃん、わたしはお前のような女が恐ろしくて堪らないが……お前を暴いてしまって信仰が崩れ落ちることの方が恐ろしい。そう思う。
(ちなみに谷崎の理想的な女をライトにしたものが三島由紀夫『夏子の冒険』の夏子であるように思う。夏子ちゃん、好きだ!)

20230322
『進撃の巨人』を読んだ。中学生の頃読んでいたけど、途中で辞めていた。面白い……!『X-MEN』や『メイズランナー』、『ゲーム・オブ・スローンズ』と似た話であると思った。わたしは勧善懲悪のストーリーが苦手で、アメコミでも『BATMAN』が一番好きだったりして所謂”ヒーロー”にあまり惹かれない。なぜならひとが争うということ、そこに明確な正義と悪がないからである。上記の作品すべて、「どうしたら最も平和的な解決ができただろうか?」と考えた。しかし、どうも完璧な解答が思い浮かばない。『進撃の巨人』でジークの思想が正しかったのかもしれないし、『メイズランナー』では少年たちはただ従っていれば良かったのかもしれない。エレンの「俺がこの世界に生まれたから」というのが全てのアンサーである気はしていて、一個体としての人間は狭い世界の中で生きておりその中での最大限の幸福を願うので全員が平等に救われる道というのはそもそも存在し得ない。思想のぶつかる作品の中で一番なるほどと思ったのが『新世紀エヴァンゲリオン』の人類補完計画なのだけど、これも結局ゲンドウのエゴであると思うと萎える。『NARUTO』の無限月読も似たようなものだけど、『進撃の巨人』の安楽死計画といい、話し合いというものを端から回避した解決策は魅力的なようで思考放棄に近いのかもしれない。
 これらの作品はトロッコ問題の応用であって、「多数を救うために少数を犠牲にできるか?」という問いだと思う。『メイズランナー』では少年たちは世界より仲間を優先して戦い抜き、その結果を我々は見ることができる。『進撃の巨人』もこの問いの繰り返しだ。『X-MEN』は主にエリックとチャールズの意見相違が中心であるが、ここでは少数を優先するエリックとどちらもを救いたいチャールズの思想がぶつかる。わたしは思う、しかしながら、人間の本質とは暴力ではなかったか?救う先が多数であれ少数であれ、その後待ち受けるのは争いでは?……
 我々は争わずにはいられない。「人類が一人以下に減れば…」というエルヴィンの言葉は正しいと思う。人間は戦争を通して豊かさを得た。人類が地球を覆う巨大な生き物だとすれば争いとはその手足であって、人類はその長く鋭い手足をもって歩んできたのだ。坂口安吾の『白痴』や『戦争と一人の女』では戦争が恐ろしく破壊的である一方どこか甘美なものとして描かれる。人間を真に苦しめるのは長く終わりのない退屈なのではないか?我々は退屈という悍ましき牢獄から逃げ出すために争うのではないか?
 高校生の頃読んだ論文に、「なぜ宇宙は広いのに人間と同じような生命体と出会わないのか」を論じるものがあった。人間と同じ知能を持ち同じ技術革新を経た生命体は存在する、彼らは我々と通信する手段すら持ち得る。しかし人類が生まれそして死ぬまで彼らに出会うことはないだろう。なぜか?高度に発達した生命体は必ずお互いに殺し合うからだ。核のような発達した技術を持って自らの星ごと殺してしまうからだ。わたしたちのような生命体がこの宇宙に数多く存在してきて、長い歴史の中で自滅していったのだ。わたしは宇宙を考えて恍惚とした、我々もまた暴力の渦に飲まれていくのだろうかと思った。暴力は果てしなく甘美である。暴力とは我々を救済する聖女のようであり、同時に我々を内側から破壊する妖婦のような存在なのだ。暴力とは我々そのものである。

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