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なんにもないボーイ

「そこでおれは思うのよ、これから先は英語が大切なんだって」
なんにもないボーイの指の間からケチャップがはみ出している。ハンバーガーをべちゃべちゃ溢しながら喋るこの男は名をなんにもないボーイと言って、齢20にして世界を見てきましたと言わんばかりに自信ありげに、声を張り上げて喋る。とにかく良く喋る。身長は162センチ、体重は60キロくらい。黒髪が少し伸びて、傷んだ毛先がぱさついている。頭の弱い両親の間に生まれて、ボーイとか馬鹿みたいな名前を付けられた。これからは英語が大切なので、名前に英語が入っているのはいいことなんだとなんにもないボーイは嬉しそうに言っていた。くちゃくちゃ。
「おれ、将来は外国に住みたい。そのためにいまバイトして、お金貯めてんの」
なんにもないボーイは居酒屋のバイトリーダーだった。なんにもないボーイが唯一持つ肩書きはバイトリーダーだけだった。バイトリーダーは彼を象徴するものであるけれど、彼はバイトリーダーの記号的存在ではなかった。なんにもないボーイは声が大きくて、配膳がスムーズで、掃除が得意で、2年間働いていた、それだけの要素が彼を一方的にバイトリーダーたらしめていた。時給の1200円だけが目に見える彼の価値だった。1時間で1200円。
「だからいまはトーイック?ってやつをやろうと思っててさ。とりあえず単語帳を買ってみたわけ」
なんにもないボーイはわたしがさも今から面白いことをしますよ、と言ったあとみたいに期待のこもった目でわたしを見る。芸のできる猿を見るみたいに、愉快そうにわたしを見る。むしゃむしゃ。彼の口内でトマトとチェダーチーズ、ビーフパティ、しなしなのレタス、バンズがぐちゃぐちゃに混じりあっていく。
「おれ、英語、しゃべれるよ。お父さんが教えてくれたんだよな」
なんにもないボーイが【お父さん】と言うとき、少し舌足らずになる。わたしにとって彼の父親は【おとうさん】というよりは【おとーしゃん】であって、それでいて何故か【お母さん】は【おかあさん】ってきちんと言える。不思議。おかあさん。
「A、B、C、でD、E、Fだろ。そんで、G、H…H…」
なんにもないボーイは指折り数えた。えー、びー、しー、って感じだった。えいち、で固まってしまったなんにもないボーイの言葉は【叡智】にも変換できるし、【エッチ】でも【セックス】でもいいんだけどそういうのが全然似合わないのがなんにもないボーイだった。1たす1が2で、2がふたつあるから4、みたいな生き方をしているのがなんにもないボーイなのだった。
「おれさ、正直、できるよ。なんでも、なんでもできる」
なんにもないボーイには何にも無い。大切なものとか、狂おしいほどの夢とか挫折とか、希望も絶望も、好きな映画のひとつも、更に言えば肉欲の類も全く無かった。なんにもないボーイはただそこにいて、ハンバーガーをぐちゃぐちゃにかき混ぜて大らかに咀嚼・安らかに消化・健やかに排便で一日ハッピー。ガールフレンドのわたしとセックスができなくて、わたしはソーサッドなんだけど本人はドントウォーリーアバウトイット、無能なディック・可哀想なプッシーって感じの昼下がり。ぽたぽた。

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