見出し画像

必要なのは、ゴリラの「負けない」精神。

「ウイルスの流行は一度のロックダウンでは終わらず、ソーシャル・ディスタンシングは、2022年まで断続的に必要になる」と、ハーバード大学の研究者らが発表したのだという。うすうすそんな気はしていたが、はっきり告げられるとへこむ。会いたい人に会えず、好きなレストランでおいしいものを食べることができない、こんな生活がさ来年まで続くのか……。「社会的動物」といわれる人間が、はたして耐えることができるのだろうか。

昨夜、TBSラジオで放送された「Session-22」をタイムフリーで聴く。ウイルス感染の封じ込めについて、トランプ大統領は「これは戦争だ」と発言し、マクロン大統領は「戦争状態にある」と発言したのだという。番組ではこうした表現に警鐘を鳴らしており、そのこと自体に異論はなかったのだが、このとき私の思考を奪っていたのは、また別の問題だった。

それは、「ウイルスと戦って勝つ」とはどういうことだろう、ということ。私たちは、いったいどうなればウイルスに勝ったことになるのか。感染しても命を落とさないこと? それとも、感染する人を増やさないようにすること? どちらも大事なことではある。が、そもそもすでに国内で感染が広がっている現時点では、どちらも「勝つ」とはいえないような気がする。

では、ウイルスを撲滅すること? それならば「勝つ」というイメージとはたがわない。しかし、今、聞こえてくるのは、「撲滅は難しく、インフルエンザのように共生するしかない」という意見だ。であるならば、私たちが目ざすべきなのは、「勝つ」ではなく「負けない」ということなのかもしれない。

そこまで考えて、以前、京都大学の山極寿一先生が語っておられた“ゴリラ論”のことを思い出した。たしか、こんな内容だったと思う。

人間の社会では、「勝とう」とすることと「負けまい」とすることが同じように語られているが、それは違うのではないか。「勝とう」というのは、相手を屈服させ、排除しようとする精神。「負けまい」というのは、攻撃せずに納得したり、譲ったりする精神。ゴリラの社会は、「負けまい」とする社会なのだ。

山極先生は、このことを「社会の構築のされ方の違い」という文脈で語っていたが、私はその「『負けない』は、『勝つ』と同じではない」という考え方に、はっとさせられたのだった。私たちに必要なのはゴリラの「負けない」精神だ、というのは言いすぎだろうか。山極先生は、どう答えてくれるだろう。

ぐるぐると考えごとをしたせいか、無性に甘いものが食べたくなってしまい、近くのケーキ屋さんへ足を運ぶ。甘いものが「生活必需品」と認められていてうれしい。しかし、夕方近くだったからか、ケースに残っていたケーキは3種類のみ。みんなもきっと同じように考えごとをして、甘いものが必要になったんだと思うことにし、いちごのケーキとミルフィーユを一つずつ買った。

(2020年4月15日)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?