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どん底ホームレス社長が見た闇と光

#創作大賞2022

第1章 どん底

経営者からホームレスへ 

    “塵も積もれば山となる”という諺があります。小さいことの積み重ねが最良の結果を残す場合もあれば、時として最悪の結果となる場合もあります。どちらにしても結果に表れるのには、やはり原因があるのです。一夜にして成功することもどん底に陥ることは決してありません。私の場合、いろいろな積み重ねが最悪の結果を招いたのです。

    会社経営をしていて羽振りのよい生活を送っていた私ですが、莫大な金額の持ち逃げ詐欺に遭い、気が付くと全財産は50円。兄弟からも縁を切られ、後に両親からも縁を切られ、帰る場所もなく、私は行き場のない街を彷徨っていました。今まで、当たり前にあった会社も家族も家もお金もありません。疲労困憊して、ただ足を引きずっている時、夢をみているのか、意識があるのかさえよくわからない状態でした。瞼を閉じると、闇の中に吸い込まれる恐怖感。

    2005年4月のことでした。辿り着いたのが、大阪の天王寺公園。考えてもみなかったホームレス生活のスタートです。自身がホームレスになるとは・・・。それは、約半年間続きました。今、思いおこしても胸が苦しくなりますが、心温かいホームレスとの出会いもありました。公園のベンチで抜け殻のように座っている時のことでした。

    「兄ちゃん、どうしたんや。なんも食べてへんのやろ」。
60歳前後のホームレスのおじさんが熟れすぎて真っ黒になったバナナを私に差し出しました。
「・・・・・・」。
「なんでも食べといたほうがええで」

    おじさんはバナナを私に無理やり手渡して行ってしまいました。
「あ、ありがとうございます」。
ふり絞るような声で礼を言うと、バナナにかぶりつきました。3日ぶりに口にする食べ物です。バナナの香りと甘さが、人間不信に陥り真っ暗になっていた私の心を解きほぐして一筋の光が差し込んできたように思えました。

ネギを栽培して飢えを凌ぐ

    絶望感に打ちひしがれていた私ですが、ホームレスのおじさんからバナナを恵んでもらったことで、生きる勇気、いや生き伸びようという力が湧いてきまた。そして生きる知恵もわいてきました。

    それは食べるための方策です。公園の花壇の一角に、ネギ、ピーマン、オクラ等を育て食べていました。飲食店の裏に捨ててあるネギの根を拾ってきて植えるのです。食べ方はというと調理道具も火もありませんから生で食べるしかありませんでした。中でもネギは成長が早いので重宝しました。日々の生活に現金も必要でしたから、自動販売機の下に小銭が落ちていないかと探したりもしました。情けない気持ちよりも生きることに必死でした。

    寝る場所はベンチと決めていました。なぜなら、ブルーシートや段ボールで住処を作るとホームレス生活から抜け出せないと思ったからです。しかし雨の日は本当に困りました。公園には雨宿りするところがありません。木の下で雨宿りするものの、衣服は雨でどんどん濡れてきます。その時も先輩ホームレスが見かねて声をかけてくれました。

    「兄ちゃん、体濡れたら風邪ひくで。うちに泊まっていき」
この時だけはブルーシートの家に世話になりましたが、それ以外はベンチで寝るという意思を貫きました。ホームレス生活から抜け出すための必死の攻防戦だったかもしれません。公園で遊びに来る人たちから「あそこにホームレスがいる」と冷たい視線を向けられても、気にせず、「この生活から絶対抜け出してやる」と心の中で叫んでいました。

    こんな毎日でしたが、驚いたことは、ホームレス生活では物々交換というやり取りがあり、生活に必要なモノが手に入ることでした。欲しいものは何でも買っていた私ですが、全財産が50円となった私は生きるために今まで経験したことのない物々交換を開始します。空き缶を集めて稼ぐことも考えましたが、売っても1キロ数十円、多くても100円にしかなりません。これでは体力が消耗するだけで、それに見合う収入にならないので諦めました。

    私はもう使わなくなった腕時計とダンボールとの物々交換、持っていたポケットティッシュと週刊誌との物々交換・・・。交換したものは大事に使い、また必要なものと交換していく毎日でした。

    生活のために、自分の体を売る売春女性もいました。1回500円~1000円だそうです。私は拘わりませんでしたが、生きるための必死さがホームレス世界にはあるのだと愕然としました。

    その現実を目にして、当たり前のことが当たり前ではなくなる怖さを知ることとなったのです。当たり前にあった仕事がなくなり、当たり前に暮らしていた家族が去っていき、当たり前に食べていた食事が食べられなくなり、当たり前に買っていたものが買えなくなりました。気付いた時には手遅れです。今まで当たり前のことに感謝していなかったことを後悔したのです。

当たり前のことを失う怖さ

    物理的に失うことよりも精神的に失うことの方がはるかにダメージが大きいことを身をもって知りました。私の場合、会社や家やお金を失ったことよりも一番信頼していた家族との別れということが原因で、前を向くのに時間が掛かりました。失った「物」は、また頑張って取り返すことも可能ですが、人間の感情は、そういう訳にはいきません。人にどんなに励まされても心は傷付いたままでした。愛に包まれた眩さが消え、闇から抜け出せない状態が続いたのです。
 
    周囲の人たちに迷惑をかけてしまった、申し訳なくて合わせる顔がない……。友人や得意先の方たちとの折り合いのついていない感情は、ひたすらループしていました。時間とともに落ち着けば、後ろ向きの感情は次第に前を向きますが、そこに辿り着くまでには悶々とした日々を過ごさなければなりませんでした。

    人は、闇に迷い込むと出口が見えなくなる場合があります。夜空の瞬きに涙する日々。不安感から自らの人生を終わらそうと考える人もいるかもしれません。それは、あまりにも勿体ない。きっと楽しいことが待っているのですから。入り口があるなら必ず出口があります。太陽は毎日、東から昇り西に沈みます。昇らない太陽はないのです。それが今は見えていないだけなのだと私は気付き、自分に言い聞かせました。

 そうして、私は、90%が苦しみであったとしても、残りの10%の幸せを何百倍も楽しむように考えました。その少しの意識の違いが幸不幸を分けると思いました。どんな苦しみがあってとしても、冷静になり、別の自分が空から苦しんでいる自分を眺めるようにすると、解決策も見えてきます。第三者的な目で自分自身を冷静に見るように努めてみました。

時給500円の皿洗いバイトから再出発

    そう考えられるようになった頃、先輩ホームレスの紹介で天王寺公園の裏側のうどん屋さんへアルバイトに行くことにしました。ホームレス生活から抜け出せなくなる怖さがありましたから、なんとか働こうと思ったのです。仕事は皿洗い。時給は500円と安かったですが1日5時間働いて得たのは2500円。そのときの私にとって大金でした。これだけあれば何とか食費と交通費は確保することが出来ます。暑い盛りでしたから、ちょっとだけ贅沢して、アイスクリームを買いました。キンキンに冷えたアイスバーの美味しさは今も忘れられません。そして週2回の銭湯も生き返るほどの心地良さでした。コインランドリーで久し振りに洗濯もできるようになり、心の余裕もほんの少し出てきました。

 ある日のこと、私が公私ともども、仲の良かったクライアントの社長の声を聞きたくなりました。公衆電話から久し振りに電話をした時のことです。
「社長、ご無沙汰しています」
しかし、社長の第一声がこうでした。
「岸田さんを紹介した人たちに合わす顔がない」
怒りをかみ殺したような声です。
「申し訳ありません・・・」
私は受話器を手に何度も頭を下げました。
「もう二度と電話をしてこないでくれ!」
この言葉と同時に、電話がガチャっと切られてしまいました。

    自分の甘さと世の中の厳しさを思い知らされた一瞬です。その社長は私個人というより私の代表取締役という肩書きで仲良くしてくれていたのでしょう。肩書がなくなれば、用済みなのかもしれません。それ以来、ホームレスになっても大事にとっていたアドレス帳ですが、仕事やプライベートでお付き合いのあった方々の連絡先のページを全て破り捨てました。もう誰も当てにしてはいけないと思ったからです。

    そんなことがあってプライドも自信も失ってしまいましたが、徐々に社会復帰の道も見えてきました。今までの人脈やつきあいを断ち切り、ゼロにしたことで、気持ちが楽になり、ゼロからの出発だと捉えるようにしたのです。お金も肩書も仕事も人脈もすべてを捨て去ったことで、すっきり、立ち直れるような気がしてきたのです。

第2章 ホームレスよりもどん底

起業、そして海外進出

    ホームレスという奈落の底に落ちた私ですが、落ちる前の話を少ししましょう。私は、大学卒業後、広告代理店に就職しました。入社して3年間は目いっぱい働いて、吸収するものは吸収して起業するつもりでした。他の社員が嫌がる仕事でも率先してこなしました。勉強しながら給料を頂けるのですから。全てが勉強と思い、仕事に邁進しました。

    私の計画は上手くいき、予定通り3年後の26歳で起業。とは言うものの、実のところクライアントもなく、すぐに売上も立たないため、自分の貯金を切り崩す毎日で、電車賃もなくなってしまい、ついには一日一食の生活に追い込まれたのです。

    周りの人は、無謀な起業だと言っていたようですが、負けじ魂というのは、そういう時に発揮されるものなのでしょう。交通費節約のため中古自転車を購入し、大阪市内のほとんどを毎日自転車で営業に回りました。何度も何度も顔を出していると、営業先の担当者も小さい仕事から注文を出してくれるようになるものです。

    仕事が受注でき、初めての入金は起業して半年後で、その額2万5千円。少ない金額ですが、自分で勝ち取った信用の結果だと喜びをかみしめたことを今でも覚えています。そこからさらに小さい努力を重ねた結果、人を雇えるようになり、5年後には法人化するまでになったのです。

    その後、クライアントから「東京に進出しないか?」という誘いがあり、迷わず首を縦に振りました。波に乗るとはこういうことを言うのでしょうか。今度は、北米・カナダに進出する計画が持ち上がりました。その計画をすぐに実行。無我夢中で頑張った結果、大阪・東京で広告代理店・プロデュース会社として、北米・カナダで人材派遣と観光事業で成功することができたのです。

セレブ生活 

    前妻との出会いは、私が33歳の時。得意先の部長さんの紹介です。妻は再婚で二人の娘がいました。子連れの彼女なので結婚など考えられませんでしたが、娘たちへの情が出てきて、彼女への思い、結婚への思いも高まってきました。「結婚しよう」と告げたのですが、「娘たちが成人するまで結婚は待ってほしい」と彼女に言われ、結局13年間待つことになったのです。

    娘たちが成人し、やっと結婚ができたのは私が46歳の時です。周りからは、「お金が目的だから気を付けた方がいい」と何度も忠告を受けましたが、“恋は盲目”なのでしょう。妻を信じて待ち続け、やっと結婚ができ、幸せな家庭を持つようになれたというわけです。

    その頃には、仕事も私生活も絶好調。兵庫県西宮市のセレブの街、苦楽園口で私は家族とセレブ生活を満喫していました。お金の心配もなく、家は4軒所有、家族旅行は年に数回、休日はショッピングやハイキングで家族団欒です。子供が「車が欲しい」というと、ポンと買ってやり、土曜日の夜は家族で高級店でのディナー、誕生日など一人ひとりの記念日にはサプライズを楽しむこともしていました。

    買い物は値段など気にはしません。これはいいなと思うものがあれば、即金でした。お金の心配はまったくなかったのですから。ほしいものは何でも手に入るというのが当たり前になっていたのです。起業した頃の純粋な必死さを忘れ、一円の大切さを忘れてしまっていたのです。

大きな落とし穴

    ところが、そんな幸せな生活も長くは続きませんでした。私が23年間、働き詰めで築いた会社で、信用していた社員Aによる莫大な金額の持ち逃げ詐欺が発覚したのです。新事業を始めるにあたり、Aに全てを任せていたのですが、準備していた資金をすべて持ち逃げされてしまったのです。その額、約5億円。勿論、銀行から借り入れた資金や信用貸しで私が保証人になった資金も入っています。持ち逃げ詐欺にあったとわかった時は、もう体中から血の気が引いていくのを感じました。

    この事件が発覚する前のことです。私が打ち合わせに行く新幹線の車中で入った一本の電話。声の主はクライアントの社長でした。「岸田さん、最近、Aさんの動きが変だ。私も個人的にお金を貸しているのだけど、毎晩、大阪の高級クラブで散財しているようだ」と。「まさか」と思い、翌日Aに電話をしてみましたがまったく繋がりません。急いでAの家に行くと、もぬけの殻でした・・・。

    Aは私の知り合いからも多額の借金をしていたことが後日判明。Aの実家にも行きましたが、お父さんは脳梗塞で入院中、お母さんは認知症で話になりません。Aの奥さんの実家にも行きましたが、「ここには来ていない」とのこと。まさか自分が騙されるとは考えてもいませんでしたから、もう目の前が真っ暗でした。

    それからというもの、私は金融機関への返済ができません。債権者からの督促状や内容証明が届き、簡易裁判所からの呼び出しがあり・・・。頭の中はパニック状態で、自分の身の上に何が起こっているのかさえ分からなくなりました。社員からは「私達はどうなるのですか?」と詰め寄られる毎日。そう言われること自体、私自身、経営者として失格だと自己不信に陥りました。

 また、私はAの保証人にもなっていましたから、裁判所から毎日のように連絡がきます。簡易裁判所で約15回の調停。弁護士にお願いするお金などありません。一人で裁判所に出向き、何度も何度も調停委員と話をしました。私の訴えを理解してくれた調停委員はついに債権者にこう言ってくれたのです。「岸田さんは加害者であるけれど被害者でもあります。債権者の方々は、どうか債権放棄という形をとってもらえませんか」。この言葉は本当に嬉しく、救われました。

    私はAをなんとか捕まえようと警察に何度も相談に行きましたが、最後に言われた言葉はこうでした。「捕まえることはできても相手が自己破産するだろうからお金は返ってこないと思ってください」。これにはもう言葉も出ませんでした。もういくら頑張ってもお金は返ってこないのだ、裁判所に行っても何をしても無駄なのだ、という絶望感に浸ってしまいました。

    しかし、よくよく考えてみれば、私が甘かったということです。人の言うことを信じてしまい、仕事を任せた自分に人を見る目が無かったことに気付かされたのです。人を信じやすい性格が悪い方に出てしまったのです。

家族との離散

    持ち逃げ詐欺が発覚した数日後、私は仕事を終えて帰宅しました。すると玄関には次女が鬼の形相で待っていたのです。「お母さんを悲しませてどう思っているの! 3年間で本当のお父さんになれたと思わないで!」。娘の氷のような冷たい言葉・・・。結婚してちょうど3年が経っていましたが、実の娘として接してきたつもりでしたが、次女からこんな言葉を浴びせられるなんて、もう辛くて悲しくて涙が止まりません。子どもからしてみれば、今まで父親として見ていなかったのでしょう。

 自分の家なのに入れてもらえなくて、その夜は仕方なく西宮市内のビジネスホテルに宿泊。翌日、奈良県の実家に行きました。父と母は、何があったのか分かりません。詳しい話をすると「しばらく、ここで休みなさい」って言ってくれたのです。実家から職場に通勤していましたが、ある日、妻から「会って話がしたい」と電話がありました。

 私は待ち合わせのカフェに出向くと、久し振りに見る妻の顔は疲れていました。申し訳ないことをしたというのがその時の私の気持ちです。これからどうするかを話そうと思っていたのですが、席に着いていきなり突き付けられたのが離婚届。最初私は離婚届に捺印することを拒否していたのですが、妻から「私のところにまで債権者が来ると嫌だし、離婚はするけれども、あなたが立ち直ったらまた一緒に暮らしたい」と言われたのです。今は妻や娘たちに迷惑を掛けたくなかったので、その言葉を信じてしぶしぶ離婚届に捺印しました。私が原因で妻にもつらい思いをさせてしまいました。

    その夜は、私は、とぼとぼと奈良の実家へ向かいました。時間を見ようとしたら腕時計が止まっています。私の誕生日に妻と娘がプレゼントしてくれた大切な腕時計からも“全てが終わった”という通告を受けたような気がしました。しかし、私は「立ち直ったらまた一緒に住もう」という妻の言葉を信じ、腕時計が止まるという不吉な予感を必死でかき消していました。

 その数日後、着替えなどを送ってもらいたくて妻に電話をしました。しかし、聞こえてくるのは「この電話番号は現在、使われておりません」というアナウンス。自宅の電話も娘たちの携帯もファックスも同じメッセージが流れてきます。全ての電話番号が変えられていたのです。

 急いで苦楽園の自宅に行くと、家の鍵が取り換えられていて、中に入ることができません。そこで初めて気付いたのです。妻がカフェで言っていた話は、離婚届に捺印させるための口実だったことを。“金の切れ目が縁の切れ目”だったのです。今まで家族のために頑張ってきたことはなんだったのか・・・。気持ちの整理が付かず、苦しさと怒りの感情が湧き起こってきました。しかし、どうしようもないのが現実です。私は、落ちぶれた気持ちで実家に帰ったのでした。

 その2日後、私のもとに妻から荷物が届きました。私の服や私物でした。それで全てを終わりにして妻はけじめをつけたかったのでしょうが、私の中では悔やんでも悔やみ切れません。債権者から身を守るための離婚ではなく、金のない私を捨てる離婚であり、一緒にやり直そうという私の思いを裏切る離婚としか考えられませんでした。妻との最後の話し合いもない中で一人もがき苦しむ日がその後、続くのです。家族はどこに住んでいるのかも分からず、連絡方法も断たれてしまいました。私が築き上げた幸せな生活もたった一枚の紙で終わってしまったのでした。

    自分では家族のために頑張っていたつもりでしたが、冷静に考えてみると、妻や子どもからすれば、仕事に追われている私に、不満や言いたいことが沢山あったに違いありません。例えば、こんな時、こうしてくれれば良かったのに、もっと話を聞いて欲しかった、子どもにこのように接して欲しかった・・・。私は、後悔の念がよぎりました。どれほど多くの人につらい思いをさせてしまったのかと。

第3章 ホームレス生活からの脱出

図書館で猛勉強
 
    ホームレス生活で夜のベンチで一人夜空を眺めている時、このまま命を絶とうかと思ったことが何度かありました。実際、公園の木の枝にひもを掛けて首を吊ろうとしたこともあります。しかし、私は何も悪いことをしていないのに何で死なないといけないのかという疑問が湧いてきたのです。
(このまま命を絶ったら私の人生にはマイナスの足跡しか残らないじゃないか。この世に生を受けた限り、プラスの足跡を残したい!)
そう考えるようになったのです。

    自分の生活を維持するだけでも精一杯だった私に「もっと社会に役立つことをしよう」という思いと力が湧いてきました。といっても何をすればいいか分かりません。自分には何ができるのだろうか、という自問自答を続けていましたが、ついに「私が23年間、続けてきた社長業の経験を活かして、私のように困っている経営者を助けよう」という考えに至ったのです。

    とりあえず、皿洗いのバイトの空いている時間に近くの大阪市立阿倍野図書館に通うことにしました。そこで、経営・金融・法律等の本を読み漁りました。しかし、知識はできたものの、これからどう行動すればいいのか分かりません。そんな時、私の友人が中小企業支援コンサルタントの社長を紹介してくれたのです。それが私の人生で大きな分岐点になったのです。

    コンサルタントという仕事は、私にとっては未知の世界です。本当にやっていけるのだろうかという不安もありました。その社長からノウハウを教えてもらい、クライアントの会社にも同席させていただけるようになりました。勿論、スーツなどは持っていませんでしたので、気まずい思いをしたこともありました。徐々に任せてもらえる仕事もできました。あくまでも鞄持ちのような立場ですから報酬はありません。すでに約半年が過ぎようかという頃に、社長から「岸田君、もうそろそろ一人で独立してやっていけるんじゃないか?」と言われたのです。私としては、まだまだ自信がありません。しかし、そう言ってもらった以上、もう甘える訳にもいきません。ホームレスにまでなったのだから、もう恐れるものは何もない!!と腹をくくりました。皿洗いのバイトも辞め、ホームレスコンサルタントの誕生です。

茶封筒の1万円札

    さぁ、これから仕事を頑張るぞ!!と思っても心のどこかにあることが引っ掛かっていました。それは、私の会社のメインバンクだったM銀行の一人の行員Bさんのことです。創業のころから親身になって相談に乗ってくれ、会社のためにひと肌もふた肌も脱いでくれた方でした。ところが私が持ち逃げ詐欺に遭った時に多額の債務を抱え、解決されていなかったのです。Bさんに不義理なことをしてしまったと、後悔に苛まれ続けていたのです。

    すると、まるで私の気持ちを読んでいるように、Bさんから電話がかかってきました。「一度、お会いしませんか? 銀行では話しづらいので、どこかの喫茶店ででも」と。私は嫌味や文句を言われることを覚悟で、天王寺公園近くの喫茶店で会うことにしました。

    待ち合わせ場所の喫茶店に行くと、Bさんは笑顔で話し掛けてくれたのです。コーヒーを飲みながら雑談話をしていると、突然、Bさんはいいました。「岸田さんが生きていてくれて私は嬉しいです。銀行から借り入れているお金は返済する必要はありませんよ」。「いったいどういうことですか?」と私。するとBさんは「返済するお金があったら、これからの岸田さんの人生のために使ってください。時効までの10年間、銀行や債権回収会社からしつこく督促や電話があると思いますが、我慢して乗り越えてください」。私はポカーンとした感じで聞いていました。でも一つ肩の荷が下りた感じでした。

    私の現状やこれからの仕事のことなどを話し終えた後に、Bさんから一枚の茶封筒を手渡されました。「これは何ですか?」と私。封筒の中身を見ると1万円札が入っていたのです。「岸田さんには大変、お世話になりました。うちの銀行のために無理難題も聞いていただいて感謝しています。今、岸田さんは、お金が無いでしょ。少ないですが何かの足しにしてください。これからの岸田さんの活躍を楽しみにしています」。私はBさんの温かい言葉と気遣いに涙が止まりませんでした。その1万円札は今でも机の引き出しに御守りとして大事にしています。

    喫茶店を出て、そこでお別れをしましたが、私は駅に向かうBさんの背中を見ながら、こう誓ったのです。
「Bさん、見ていてください。必ず這い上がって人に恥じない活躍をしてみせます」。

ノンバンクからの督促に追われて

    そんな心温かい銀行員のBさんがいると思えば、毎日、督促の電話をしてくるノンバンクもあります。私が保証人になっている以上仕方がないことですが、毎日の督促電話に疲れ果てた時期もありました。裁判所で債権放棄に応じなかったノンバンクは、5社ぐらいでしょうか。電話に出るのも嫌になります。

    例えば、会話内容はこんな感じです。
「返済はいつになったらしていただけるでしょうか?」
「ホームレスですので、いつかは言えない状況です」
「そうしたら、いつ頃、ホームレスから脱して返済の目途はたつでしょうか?」
「そんなこと分かりません。目途がついたらこちらから電話します」
「ホームレスを証明するものはありますか?」
「ある訳ないでしょ」
「生活保護を受けられたらどうなのですか?」
「住所不定では生活保護は受けられません。それに生活保護から返済することは禁じられています。もっと勉強してから言ってください」
「どんな状況でも、借りたお金は返済する義務があるのですよ」。
「返済する気持ちはありますが、どうにもならない状況を分かって貰えないのですか?」
毎日、同じ遣り取りの繰り返しです。

    すべてとは言いませんが、人の命よりも返済義務の最優先するノンバンクが多いです。私が保証人になっていたノンバンクはすべてがそうでしたから。貸す時は、「ありがとうございます」と低姿勢ですが、返済できなくなると身ぐるみを剥がすようなことをしても何とも思っていない感じでした。私は、心のどこかで「返済するものか!! 時効まで対決してやる!!」と思うようになったのです。

    しばらく、ノンバンクからの電話が無くなったと思っていたら、今度は、債権回収会社からの督促電話が止まりません。債権回収会社の方がもっと酷いものです。まるで闇金か取り立て業者のような口ぶりです。脅しのように言ってくると、こちらとしても返済する気持ちがあったとしても、「よし、戦ってやる!!」と思うようになるものです。

    本当は、借りたお金は返さなければいけませんが、Bさんが言ってくれたように「返済するお金があったらこれからの自分の人生のために使おう」と考え始めたのです。それで気持ちも前向きになれたように思います。

生命保険で命を狙われる

    Bさんの励ましで、心にわだかまっていた一つの引っ掛かりが取れて、仕事のスタートラインに着くことができました。仕事をするにも、まずは名刺を作成しなければなりません。しかし、私はホームレスですので、住所不定です。悩んだ挙句、名刺の住所欄を空白にした名刺を作成したのです。当然、情けない気持ちはありますが、「一日も早くこの名刺に住所を入れてやる!!」との気持ちも湧いてきたのです。

    名刺ができ上がってきた時は、本当に嬉しかったですね。今まで、お付き合いのあった人に、「ホームレスをやっています」とは言えませんから、知り合いに頼んで名刺をばら撒いてもらうことにしました。すぐに反応があるわけではありませんが、仕事をしている自分を認めたかったという気持ちもあったのでしょう。

    1カ月ほどして、一人の零細企業のC社長を紹介してもらいました。人の良さそうなC社長でしたが、話を聞いてみると、資金繰りで困っているとのこと。何とか解決してあげたいという思いでしたが、私は他のコンサルタントと差別化するために成功報酬でお金をいただくように決めていましたので、この案件を解決しない限りお金は入ってきません。解決までに時間がかかりそうで躊躇もしました。しかし悩んだ挙句、この案件を受けることにしました。

    C社長に詳しく話を聞いてみると、かなり厄介な案件でした。銀行から融資を止められた、闇金からお金を借り入れてしまい、脅されて命も狙われている・・・。こんな案件には他のコンサルタントは手を出したくないものです。

    しかし、私自身、持ち逃げ犯Aから裏社会からの借入金の保証人にされていました。その裏社会の人物から生命保険を掛けられて命も狙われていましたので、この案件を聞いてもぜんぜん恐怖感はなかったです。まず私は、C社長が契約させられていた生命保険会社に電話をして、「御社は殺人の片棒を担ぐ保険会社なのか!!」と言って、解約させました。

    生命保険の問題は解決しましたが、知らないところで魑魅魍魎がうごめいているものです。良からぬ者たちが次の手を打つ前に、C社長の会社に何とか銀行融資を復活させて、闇金へ一括返済することを急ぐ必要がありました。それには専門チームを組まないと解決しません。私は、元銀行員、弁護士、裏社会に詳しい人物に声を掛けてチームを立ち上げたのでした。

第4章 悪徳業者と対決

C社長が行方不明

    やっとチームが出来上がり、C社長とこれからの解決策に向けての打ち合わせです。過去5年間の帳簿類等を確認しながら、再生させるための手順も確認しました。しかし、何かがおかしい。帳簿類の数字が合いません。帳簿通りなら業績はもっと順調なはずなのです。「C社長、何か隠していませんか? 正直に言っていただけないと、こちらとしても協力しかねます」。するとC社長は、気まずそうに、引き出しから別の帳簿を出してきたのです。

    私たちは、その帳簿に目を通したのですが、一瞬凍り付きそうになりました。それは裏帳簿だったのです。数字を見ると、よくこれで会社を回して来られたなぁというような酷い数字でした。最初の仕事がこれかぁと愕然としましたが、仕事を引き受けた以上、途中で投げ出すわけにはいきません。一度、帳簿を持ち帰ってチームで分析することにしました。それから1週間程した夜、1本の電話が。「こんな夜遅くに誰なのだろう?」と電話に出てみると、C社長の奥様でした。

    その電話に嫌な予感がしました。
「どうされました?」
「主人が行方不明なのです。キッチンにあった包丁と倉庫にあったロープが無くなっています」
「すぐに警察に電話をしてください。私は、朝一番でそちらに向かいます」

    気掛かりでなかなか寝ることもできません。明け方に、また奥様から電話がありました。「警察から連絡がありました。主人が琵琶湖で見つかりました。元気だそうです」と奥様の安堵の声に、私もホッとしました。

    私は始発の電車で大阪府枚方市のご自宅に行きました。しばらくしてC社長が警察から帰ってきました。事情を聞くと、お金を借りていた悪徳業者から脅迫されていて、命と引き換えにお金を作れと言われたそうです。それは、保険金目当てだったのです。こんな脅しがこれからも続くのかと思うと、苦しくてどうしようもなかったそうです。死ねば借金も返せて楽になると思い、琵琶湖に向かったそうです。ところが午前4時頃、入水自殺しようと思っているところにお坊さんが通りかかったそうです。朝の4時にお坊さんと出会って説教されて自殺を思いとどまったそうですが、そんな早朝に湖畔をお坊さんが歩いているのは不思議です。きっとC社長は守られていたのでしょうか。いまとなっては謎なのですが。

    C社長が自殺まで考えていたことをどうしてで気付いてあげられなかったのかと私は唇をかみ締めました。その悪徳業者は後日、警察に逮捕されたのですが、私はC社長に言いました。「社長には家族も家もあるじゃないですか。私なんてお金どころか家族も家もすべて失いましたよ。それでも、一生懸命に生きています。これからは、社長は家族を守るような生き方をしてください」と。

闇金業者からの嫌がらせ

    また、このような案件もありました。大阪のD社長。会社の経営が破綻しそうになり、ついつい闇金業者に手を出してしまったのです。警察にも相談しましたが、何もしてくれないし、弁護士にも相談したそうですが、怖がってどの弁護士からも断られたそうです。D社長は悩み苦しんだ挙句、私に相談してこられたのです。

    闇金業者は、優しく人当たりのいい男性だったそうです。自分が苦しんでいる時にお金を貸してくれるという優しさに手を出してしまったのです。これは絶対に相手にしてはいけない業者なのです。手形を先に闇金業者に送ると闇金業者から入金されます。法定外の利息と元金が期日に口座から引き落とされますが、次回は枠を広げてそれ以上の金額を貸してくれます。その甘い罠に引っ掛かってしまったのです。D社長は、もう自分ひとりではどうすることもできません。

    私は、D社長の将来を案じ、ある提案をしました。その闇金業者は東京が拠点の業者です。「東京からわざわざ取り立てに来ませんから、借り入れ上限枠いっぱいを借り入れてください」と私は伝えました。「そんなことをしたら返済できません」とD社長。「返済する必要はありません。その代わり一度だけ不渡りを出してください。一度だけなら大丈夫ですから」

    D社長は、闇金業者に連絡し300万円を借り入れることにしました。手形が落ちる日までに銀行口座の残高をほとんど出金してもらい、残高0円に近い状態にしておきました。「期日に手形が落ちなかったら闇金業者から連絡がありますが、すべて岸田という人に任せてあるので、岸田に電話をするようにと言ってください」とD社長に伝えたのです。

    案の定、不渡りで闇金業者からD社長を経て私のところに電話がきました。
電話に出るなり闇金業者は怒鳴り始めたのです。
「何してくれてんだよ」と闇金業者。
「D社長は返済するつもりで友人からお金をかき集めたのだけど足らなかったそうです」と私は丁寧に対応しました。
「返済するつもりはあんのか?」
「ありますよ。ただ東京まで行くお金が無いので大阪に取りに来ていただけたら返済します」
「てめえ、俺をなめてんじゃねえぞ!!」
「正直に言っているだけです。大阪駅の近くに曽根崎警察があるので、その前で現金を渡します」。
「おまえは詐欺師か!!」
「詐欺よりも悪いことをやっているのはおまえやろ!! 警察の前では受け渡しできんようなまずいことをしとるからやろ!!」と怒鳴りつけて電話を切ってやりました。

    その後1週間、闇金業者からのワン切り電話が止まりませんでしたが、私は電話を取ってわざと押し問答を繰り返し、東京からの電話料金がどんどんかさむようにしました。そんな私のやり方に闇金業者はあきらめたようです。それでD社長は300万円を手にして、会社の再建への第一歩を歩み出したのです。

危険な会社に一人で乗り込む

    次の案件は同じく大阪市で小さな鉄鋼所を経営していたE社長。D社長と同じ頃に、お手伝いさせていただいた案件です。これは、事件になってもおかしくないような事例でした。

    E社長は仕事柄、土木や建築関係の人脈が豊富な人でした。しかしF興業という看板を上げている会社に、E社長の会社が借金の肩に乗っ取られようとしていたのです。その借金額は、約500万円。F興業という看板を上げていても、裏では違法な金貸しをしている、元ヤクザの組に関係していた人物が社長です。

    E社長もD社長と同じく、警察や弁護士に相談に行きましたが、相手にされませんでした。なんと世の中は不条理なのだろう、と私の経験した持ち逃げ詐欺と重なり、E社長をこの苦しさから開放してあげたいという気持ちが湧いてきたのです。

    といっても、今回は尋常な相手ではありません。F興業は、大きな裏社会と繋がりのある会社ですので、法的に解決していかなければなりません。毎晩、E社長の会社にも自宅にも、取立てに来ていましたので、E社長の家族は、かなりの恐怖感を抱いていて、精神的にもギリギリの状態のようでした。

    この案件を解決するには少し強引な方法を使った方がいいと思い、E社長に取り交わした借用書を見せてもらいました。その借用書を手に私はE社長にこう話しました。「今から手順を説明します。F興業の行為は違法ですので、私がF興業に行って話をつけてきます。E社長は、近くの喫茶店で待っていてください。もし私が1時間経っても事務所から出てこなかったら警察に連絡してください」。「岸田さん、だ、大丈夫でしょうか?」とE社長は震える声で聞きました。

    私は、和解書を3通作成し、乗り込む日を待ちました。いよいよその日、F興業の事務所近くの喫茶店でE社長と最後の打ち合わせと確認作業をしました。「それでは今から行ってきます」と言ったものの内心はドキドキです。

    意を決して私は、F興業のドアを開けました。目に飛び込んできたのは、ヤクザ風の若い男性が2人。「どちらさん?」と聞いてきたので、「社長はいるか?」と聞き返すやいなや、男たちが飛びかかってきました。私は、一人の男性の腹を蹴り倒し、もう一人の男性の顔面を殴りつけました。すると奥から中年男性が出てきました。
「あんたが社長か?」
「そうやけど何か用か?」
「E社長の件で話があるんやけど、そいつらに手を出さんように言うてくれ」

    私は正面にある大きな社長の机の前に立って話をしました。
「和解書を持って来たんやけど、目を通してくれ」。
その書類を見る社長の目がどんどん鋭く血走ってきます。
「こんな和解書、吞めるか!! こんなことして、お前どうなってもしらんで。覚悟できとんのか」と凄みます。
「ほぉ、そうかぁ。そんなこともあろうかと思って、いつでも弁護士と警察に連絡をできるようにしてあるんや。あんた、違法なことをしてるんやで。これを受け入れへんかったら逮捕や。組の上層部にも示しがつかんやろ!!」
私に凄まれて、その社長は、苦虫をかみ潰したような顔になっていました。

    私が作成した和解書の内容はこうでした。
この借用書及び金銭賃借は無かったものとする。返済残高の返済は要求しない。E社長及び家族、会社には今後一切近寄らない。要求を受け入れられた場合、E社長は、F興業に対し事件として扱わない。
F興業の社長も違法なことをやっている認識がありますので、しぶしぶ3通の和解書に署名捺印をして1通を引き出しにしまいました。

    F興業から出てきた私は、全身から力が抜けた感じでした。喫茶店で待っていたE社長に残りの2通の和解書を手渡し、これで一件落着です。なぜ、和解書が3通必要だったのか?1通はE社長の保管用、1通がF興業社長の保管用、もう1通は、何かあった時に警察への提出用だったのです。

第5章 正直な生き方

今、死んだら後悔するよ

    頂点からホームレスまで一気に落ちると、生きている意味が分からなくなってしまいます。そんな時、自分に問い掛けてみました。今までの人生に意味があったのか?と。出た答えは、自分の宿命を転換しなければ、この苦しみは付いて回るということです。自分の幸不幸を決めるのは、環境でも周りの人間でもありません。自分の心です。自分の心を変えたおかげで、どんな悪い環境であったとしても、飛躍のバネと捉えていくことができたのです。

    今、苦しみの真っ只中にいる人もいるでしょう。命を絶ちたいと考えている人もいるでしょう。どうして自分だけこんなにも不運に見舞われるのだろうと悩んでいる人もいるでしょう。人生100年といわれている今、良い時も悪い時もあって当然です。しかし、一時の不幸で自殺するのは勿体無いですよ。世の中、まんざらでもないですから。あなたよりも苦しんでいる人や悩んでいる人は世の中には沢山います。自分の心を転換していけば、トンネルの先に明るい光が見えてきます。

    目標を立てれば生きる意欲が湧いてきます。つらい、苦しいとばかり嘆いていては、底なし沼です。今は苦しいかもしれませんが、一瞬一瞬を完全燃焼していけば、未来は見えてきます。ホームレスであった私は、このように心を転換して這い上がってきました。あの時、自殺しないで良かったと今では心の中から思えるようになれたのです。

家賃3カ月滞納

    ホームレス生活をしながらコツコツ貯めたお金で少しは貯金もでき、この生活から卒業しようと決心したのは、ホームレス生活を始めて半年後のことでした。不動屋さんに行き、物件を見て回りましたが、できるだけ敷金等、初期費用が掛からないことが私の条件です。その中で一番気に入った物件は、大阪府八尾市にある6畳一間の物件。大家さんに私の今の状況を説明すると、水道代の全額、プロバイダー代の半額を大家さんが持ってくれると言ってくれたのです。共益費等全て込みで53,000円です。今の私にとって贅沢過ぎるかもしれませんが、即決でそこに決めました。

    6畳一間は狭いですが今までのホームレス生活に比べると天国です。屋根があって雨風を凌げますし、柔らかい布団で寝ることができるのですから。それに夜も照明で明るいですから何より安心感があります。家財は中古品で揃えましたが、そんなウキウキといた気持ちはいつまでも続きません。電気・ガス代を支払ったら家賃が支払えなくなってしまったのです。いい条件で入居させて頂いた大家さんに何て説明しようかと悩みました。しかし、こういう時は正直に訳を話すことに限ります。

    私は、大家さんに事情を説明に行きました。またホームレスに戻りたくないという気持ちでいっぱいでしたが、大家さんは優しく「気にしなくていいですよ。お金ができた時でいいですから」と言ってくれたのです。本当に救われました。しかし、その後、また支払えなくなりました。まだまだ収入が安定していませんし、ホームレスで貯めた貯金も入居の初期費用で無くなっていました。

    私は、再び事情を説明しに大家さんの家に向かいました。今度こそ、何か言われると覚悟はしていましたが、大家さんは「大丈夫?無理しなくていいですからね」と言ってくれたのです。私は優しい言葉に、「もう甘えていてはダメだ!!」と気持ちを切り替え、家賃の支払いを優先することにしたのです。電気・ガス代は後回しです。大家さんの優しい心に甘えたくなかったからです。

    今まで以上に切り詰める生活を始めました。まずは食費と携帯電話代を見直すようにしました。特に食費は一日500円と決めました。安くて栄養価のある食品を調べて、安いスーパーマーケットで買い、できるだけ自炊をするようにすると、かなりの食費が浮いてきます。毎日同じもので飽きる時もありましたが、ホームレス生活に比べると月とスッポンです。

5日間、食べるものもなく

 しかし、食費を浮かした生活も長くは続きません。仕事も軌道に乗るまでは時間が掛かり、収入も安定しません。ついに食費も底をついてしまいました。数日間は、納豆、もずくで飢えを凌ぎましたが1週間ほどすると、それも底をつきます。

 ついに全ての食品が目の前から消えてしまったのです。それから5日間、ほぼ水分だけで耐えましたが、体は身中からフラフラです。栄養失調の孤独死も覚悟したほどです。そんな時、東京の友人から1本の電話が。「元気にしているか?」と電話の向こうで友人の声が響きます。私は正直に「食料がない」とも言えず、「何とか頑張ってる」と言うのが精いっぱいでした。

 しかし、友人は何かを感じたのか、「本当は苦しいだろ」と私の心の中を読んだかような言葉でした。「実は・・・、5日間、何も食べてない」と答えると、「バカか!!何故、もっと早く言ってこない!!」と叱る口調で言われました。「すぐに何かを送るから、もう一日だけ頑張れ!!」。私は、その言葉にどれだけ救われたことか。

 翌日のお昼過ぎ、段ボール箱2個が宅急便で届きました。段ボール箱の中には、ラーメン、缶詰、お菓子、パン、お米、レトルトパックのカレー、果物等がギッシリと詰まっています。すぐに友人に電話で感謝の気持ちを伝えました。「こんな時に助けてくれるのが本当の友人だ」と心の中で叫んだものです。昨日、電話を切った後、仕事中にも関わらず、すぐに食料の調達に走ってくれたのですから。

 暫くの間の食料に目途が立ちましたが、まだ仕事で移動する交通費の目途が立ちません。恥ずかしい思いはしたくはなかったのですが、クライアントに電話をして、月末に振り込まれるお金を早めに振り込んでもらえるよう、お願いをしました。背に腹は変えられませんからね。

笑いが出たら本当のどん底

 ホームレスからのどん底生活は、依然として続きます。先が見えないその日暮らし。目に見えない力で上から押さえ付けられているような感覚でした。人はそんなどん底生活を続けるとどんな感情が湧いてくると思いますか?不思議なことに自然と笑いが出てくるのです。どん底生活なのに変な人と思うかもしれませんが、笑いが出ると、そこから下はないと私は直感しました。

 人は前を向くか上を向いて笑いますよね。下を見て笑う人は少ないと思います。この笑いが私の心を楽にさせてくれました。前を向いて上を向いて笑っていると気持ちも前向きになれるのです。苦しい人生にある人も笑い出したらそれが本当の底ですから、もう落ちることはありません。笑いが出ない人は、まだ底に至っていないのかもしれません。笑いって凄い意味があるのです。

 毎日、笑って生活をしていると、不思議なもので、新規の仕事も入ってくるようになりました。しかめっ面で生活をしていると悪運に好かれてしまいます。反対に、笑顔でいると良運が寄ってくるのです。どんなに苦しい時でも笑顔を忘れずというのは難しいかもしれませんが、毎朝、鏡で顔を見る時だけでも笑顔を心掛けてください。良運が寄ってきてくれますから。顔の表情で人生を変えることができるのです。

生きることを選択したホームレス社長

 やっと目標や将来の夢を見ることができるようになった私は、具体的な内容をノートに書くようにしました。文字にすると不可能が可能に見えてくるのです。可能性が見えた時、生きる意欲も湧いてきます。本当のどん底を見た人間は強いです。死ぬことを覚悟して人間が「人に何と言われようが生き抜いてやる!!」と、思えるようになるのですから。それからは勝つ人生より負けない人生を選ぶようになれました。

第6章 終わりは次へ進むためのステップ

さらなる試練

 ホームレスから立ち直ってからは、朝から夜中まで休み無しで人の何倍も働きました。ほぼ365日休み無しに働いていました。それもこれもまた兵庫県西宮市苦楽園に戻りたいという強い気持ちが強かったからです。8年後ぐらいには生活にも余裕が出来、貯金も人並み以上に出来るようになりました。

 そんな時です。友人から一本の電話が掛かってきます。「友人の会社が資金調達に困っているのだけど話しを聞いてもらえないか?」と。「直接、会って聞いてみましょう」と返事で後日、会うことになりました。場所は、大阪市内の喫茶店。話の詳細はこうです。「京都市のある場所を再開発することと、永久磁石モーターで公害のないエネルギーの開発をすることになったのですが、その資金が少し足りません。お借りしたお金は、すぐに返却する予定なので、銀行融資は考えていません」。最初は、あまり信用も出来ず、半信半疑で話を聞いていました。その後、何度か話し合いの場を持ち、すぐに返却されるお金なら少し貸してもいいかと甘い考えが出てきてしまったのです。

 その当時、私はかなりの貯金額がありましたので、自分自身に油断があったのでしょう。100万円を貸すことにしました。その時は、友人の紹介なので、あまり疑いもしていませんでした。

 しかし、1カ月経っても2カ月経っても返金する様子がありません。何度か催促したのですが、「もうすぐ返却出来るので、少し待って欲しい」との一点張りです。

怪しい会長

 本人がどうしようもなくなったのでしょう。会長という人物が出て来ました。会長は海外との仕事の為にフィリピンに住んでいるということでした。私は会長が話に入って来たので少しの安心感が生まれました。今、考えると馬鹿げたことなのですが、会長は「〇〇元首相と友人だ。〇〇会社の〇〇社長にお金を貸していた。莫大なゴールドを保有している。世界の通貨の価値は私の同意がなければ決まらない。北朝鮮拉致被害者は私のお金で日本に帰した。永久磁石モーターでスーパーカーを作った。電動自転車・EV車・タイの地下鉄は私が作った永久磁石モーターで走っている。10億円の水晶の仏像を持っている・・・等々」並び立てていました。何故、そんなことを信じてしまったのか、不思議です。きっと人を信じ込ませる詐欺師独特の洗脳方法があったのでしょう。

 すっかり信じ込んだ私は、会長の思うままに操られるようになりました。他にも永久磁石モーターに興味を持ち、出資する賛同者が増えて来ました。心のどこかに少しの不信感はありましたが、これだけの賛同者が出て来ることを嬉しく思った程でした。

 そんな時、ネットで会長が以前に100万の詐欺容疑で6年3カ月の有罪で刑務所に入っていたことを知りました。それを会長にぶつけてみると「あれは冤罪で私は何も悪いことをしていない。当時の検事と弁護士が結託して私を有罪に仕向けたことだ」とのことでした。その有罪に反論する会長のブログも読んでみましたが、私は、そちらの方を信じてしまったのでした。

嘘の株の一般公開

 それから半年が経った頃でしょうか。会長が突然、「会社の株を一般公開することになったので、出資してもらっているお金は株に変わります」と言って来たのです。これは嘘だろうと思いましたが、詳細を聞くと、証券会社の名前も出し、かなり具体的な内容で信憑性がありました。「一般公開すると今の出資金の何千倍もの価値になるから、その方が得ですよ」と言われて為、私もお金に目が眩んだのでしょう。

 その数日後、「株主総会を開催するので出資している人は出席してください。出席出来ない人は株主の権利はありません」との通知が来ました。今、思えば、それ自体あり得ないことです。出資しているのに、株主総会に出席しないと出資金は消えて戻って来ませんといっているのと同じです。

 私は、株主総会に出席しましたが、出資者の殆どの人は喜んでいました。私は複雑な思いをしていたものです。そこから本格的なお金のむしり取りが始まります。「株の一般公開をするのにお金が足りない」「フィリピンで借りていたお金を倍返ししないと、この話は無くなってしまう」というように事あるごとにお金を集めるようになって来たのです。「会長、世界を動かすだけのゴールドがあるのだったら、日本に送ってください」と私が言うと、いつも「ゴールドを日本に送ろうと思っても前科があるから途中で止められて送れない」との返事です。その辺りから怪しいと感じ始めました。

 しかし、他の出資者は、会長をまだ信じていましたが、その頃には、もう手遅れでした。私も、合計約2500万円を出資していたのです。その後、何度も株主総会を開催し、言い訳の上塗りで出資者を信じ込ませていたのです。今でも株が一般公開されるのを心待ちにしている人が多くいます。私たちが出資したお金は、いったいどこに消えたのか?調べた結果、会長が個人的な借入金の返済と自宅の改築費用に消えたことが分かって来ました。

 最初から、その為に私たちを利用してお金を集める魂胆だったのです。ゴールドも現金も持っていません。最初に大きなことを言っていましたが、全て嘘だったのです。100万円の詐欺で6年3カ月も刑務所に入ることはありません。余程、悪いことをしたのでしょう。会長本人は、悪いことをしたとは思っていません。騙される方が悪いという考えです。心根のない詐欺師とはそういうものなのです。

これからが戦い

 私は、もっと上を目指していたので、この詐欺は大きな障壁となりました。貯金で貯めたお金でマンションを購入しようと思っていましたし、事業も拡大しようと考えていた矢先ですから。全てが振り出しに戻りました。今でもその会社は大阪市内に存在します。しかし、仕事の実態がありません。会社が維持出来ているのも、騙された多くの人からの出資金で成り立っているのです。

 当然、弁護士にも相談しました。「それは典型的な詐欺師が使う手口だ。一回、持ち逃げ詐欺で痛い目に遭っているのに、どうして分からなかったのだ」と反対に指摘されました。返す言葉がありません。まだ救いなのは会長の居場所が分かっているということです。姿を眩ますと詐欺事件になるので、返金を引き延ばす口実を日々、考えているのでしょう。

 しかし、このまま放っておくつもりはありませんでした。私の汗の結晶の2500万円なのですから。その思いが通じたのか、会長は逮捕されました。

 私の第2の人生の為に貯めた貯金の半分を笑いながら持っていった詐欺師を許しません。それがまかり通るような社会ではいけないのです。私の戦いは、ホームレスから抜け出して終わりではありません。始まったばかりなのです。自分自身の夢を叶える為にも前を向いて人生に勝たないといけないのです。

 私は、これ以上お金を無くしたくないので、安全にお金を増やす方法を考えました。そこで始めたのが資産運用でした。今、残っている資金を人との関わりを持たずにいかに安全に増やすかが課題でした。困っている人を見るとつい助けたくなる自分の性格が分かったので、お金に関しては人との関わりを作りたくなかったのです。

 当然、お金を増やす為の勉強も1年間しました。手持ちの資金を少しずつ増やしていき、今では詐欺に遭って失った以上の金額になっています。よく「お金は天下の回りもの」と言われますが、消えていったお金がまたこうして何倍にもなって戻ってくるものです。

「こけたら立ちなはれ」とは、松下幸之助氏の言葉。今、その言葉の重みが分かった気がします。私も何度こけても立ち上がって、前を見つめて一歩一歩、進んでいきたいと思っています。最後に笑える人生の為にも!!

第7章 寄り添う大切さ

ホームレスにならずに済んでいたかも

 持ち逃げ詐欺で全てを失い、今度は、株券詐欺で財産の半分を失った私ですが、その時に寄り添う相手がいれば、ここまで失うものが多くなかったでしょう。私は、身近に寄り添う相手がいなくて、一人で考え、行動していました。当然、心の健康も失われていきます。ホームレスにならずに済んでいたかもしれません。

 ホームレス当初、何故、自分だけがという思いが強くありました。人を憎むこともありました。しかし、それは、自分自身が持って生まれた“すぐに人を信用する”というお人好しの性格が悪い面で出たのでしょう。「そんな性格なのに、よく今まで騙されずに会社経営してこられたな」と陰口をたたく人もいました。そりゃ、悔しかったですよ。

 「人の不幸は蜜の味」という諺もあります。しかし、本当に助けを必要としている人に、寄り添うのが本来の人間らしさではないでしょうか。ホームレス時代の空腹時、食べ物を分けてくれたホームレス仲間の有り難さを痛感します。他人であっても仲間意識を持っているのですから。

 当然、このような状況下では、心も病んでいきます。自分が自分でないような心の状態でした。眠れない、食べられない、フラフラする、一瞬、意識が無くなる・・・。自分でも訳が分からず、病院に行ったところ、極度のパニック障害とうつ病と診断されました。医師から「次回は身内の人と一緒に来てください」と言われましたが、私には身内がいません。それを先生に告げると、「一人では回復しない病気なので困ったなぁ」との返事でした。私は返す言葉がありませんでした。

 医師に今までの経過を正直に全て話すと、こう言われたのです。「今まで生きていてくれてありがとう。普通、これだけのことがあったら自分で命を絶っていますから」。その時、今まで頑張って来た自分に涙が溢れました。

治療の始まり

 自分の心の病の病名が分かって、悲しかった反面、ホッとした一面もありました。治す為に自分に向き合うことが出来るのですから。長い治療の始まりです。当時、一番つらかったことは、睡眠時、詐欺に遭った頃の様子が夢でフラッシュバックすることでした。詐欺に遭って右往左往している様子、金融機関からの連日の督促状で悩んでいる様子、発注先への支払いが出来なくて電話での督促、裁判所からの呼び出し、妻子に追い出された時の様子・・・等、そんな日々が続き、苦しくて飛び起きていました。手は握り締め、目からは涙が。徐々にフラッシュバックは治まって来ましたが、今でも一年に何回かはフラッシュッバックで飛び起きることがあります。人の脳というのは繊細なのですね。

 医師から「時間は掛かるけど、ゆっくりと治していきましょう」と言われた時、心の中で「すぐに完治する薬があれば、少々のお金でも払う」と叫んだものです。それほど、つらいものなのです。

 私が通院した心療内科では、最初にテストがあります。今の心の状態を見る為に一週間掛けて、いろいろなテストがありました。積み木であったり、箱庭を作ったり、知恵の輪を解いたり、数字の筆記テストであったり、毎日のように行われます。その結果が出る日、何を言われるか戦々恐々でしたが、医師に言われたことは、「岸田さん、あなたのIQは非常に高いです。一日三時間、勉強すれば東大に合格できるレベルですよ」「しかし、病状は非常に悪いです」。喜べばいいのか悲しめばいいのか。

 しかし、これ以上悪くなることはないのですから、気持ちが楽になりました。
まず処方された薬は、自殺とかを考えられないようにするために、何もやる気を無くす薬でした。この薬は頭がボォーとするだけでなく、一日中眠気に陥ります。一日中、家でダラリダラリとする生活が続きます。やる気が起こらないのですからね。サボっているのではなく、そういう薬なのだから仕方がないと思うようにしました。

少しずつ向上させる

 そんなやる気のない生活が一年程続きました。しかし、私は、生活をする為に、仕事をしないといけません。セーブしながらと思いつつ、ついつい頑張ってしまうものです。その頃が、治療の中でも一番つらかったでしょうか。やる気がなく睡魔に襲われる状態の中で、頑張らないといけないのですから。いつになればこの状態から脱せられるのかという不安と焦りが交錯していました。

 やっと精神状態も安定し出して、治療も次の段階に入ります。まずは、今までの薬の量を減らし、気持ちを上向きにする治療が始まりました。薬を切り替える時は不安定さが出ますが、これでやっと初期段階を卒業し、次のステップに進めるという気持ちでした。

 それでも、病気と一人で向き合わないといけないという孤独感はあります。誰かにこの状態を話して、少しは楽になりたいという気持ちもありました。そんな時に気持ちを癒してくれたのは、家の近所にある公園で無邪気に遊ぶ子供たちでした。孤独感で心がはち切れそうになると、いつも公園に行って、大空の下で遊ぶ子供たちを見ていました。元気な姿に勇気と笑顔を貰ったものです。

 心の病気というものは、一人で立ち向かうのは難しいものです。だからといって、状況を変えることを出来ないことも事実です。心が叫んでいても、解決するのは自分自身です。どうすれば心が安定するかは人それぞれ。無理に頑張って、もっと仕事をしようなんてもってのほか。今、ある状況をいかに崩さないようにするかが大事です。他人に何を言われようが、病気の時こそ、自分を信じることが大切なのです。

長期間の治療を終えて

 私は、持ち逃げ詐欺に遭ったことで、人を信用出来ないというトラウマがありました。そのためか、治療には8年程かかってしまったのです。その期間、ずっと一人での闘いでした。こんなことを思ったことが何度あったでしょうか。「同じ屋根の下に家族と呼べる人があれば、もっと早く治っていたんじゃないのか」と。

 人は弱いものです。一人で生きていくことは、いかに大変か。今、病気、人間関係、お金の問題・・・等と闘っている人もいるでしょう。しかし、決して一人で解決しようなんて思う必要はありません。身近な信頼できる人にアドバイスを貰ってください。自分にはない知恵が湧いたりしますから。

 私は、長期間の治療を終えて、自信を持って言えることがあります。寄り添う人がいることがいかに大事かということです。どんな苦悩があったとしても、一人の寄り添ってくれる人がいるだけで、心の安らぎを得ることが出来るのです。家族であっても親友であっても、先輩であってもいいのです。私は、残念ながら寄り添う人がいませんでしたので、医師を信じることしか出来ませんでした。しかし、病院では話を聞いてもらえますが、家に帰ると孤独です。それがまた病気を悪化する要因にもなるのです。

 今は、やっと人を信用できるようになり、仲間も沢山できました。まだ家族はいませんが、やっと病気から抜け出せたように感じます。私の場合、一番苦しかった時に寄り添って貰える人はいませんでしたが、これからは、私が寄り添っていける立場になりたいですね。

 私は、心の病で苦しんだ分、心の病気を経験していない人以上に出来ることが沢山あると思います。人にアドバイスをするにしても、自分が経験したことほど、説得力のあるものはありません。ホームレス時代、自分で命を絶とうと考えた頃には、もう病気に侵されていたのでしょう。今となっては、他人の自分と思えるぐらいです。

第8章 定まった方向性と虚脱感

責任感が負担に

 心の病というのは、真面目で頑張り過ぎる人がかかりやすいと言われています。ホームレス以前、会社を経営していた時の私もそうでした。誰よりも早く出社し、誰よりも遅く退社する毎日。社長であれば、遅く出社し、早く退社したっていいのですが、私の経営理念がそれを許しませんでした。社長が率先して動かないと社員は付いてこないという理念があったからです。社員は、社長の行動をよく見ているものです。社長というのは責任感が強いことが必要ですが、それが強過ぎると体の負担になってしまいます。自分で仕事や問題を抱え込むのではなく、相談ができ、任せることのできる人が必要です。

 ホームレスから這い上がってコンサルタント業をした時も、一人での再起業でしたし、もうホームレス生活には戻りたくない、という気持ちが強く、以前に比べて数々の問題を一人で抱え込んでしまっていることのも気づかず、一心不乱に仕事をこなしていました。そんな状況でも弱音は吐きません。私には目標・目的があったからです。

 私が全てを失った最後の街は、兵庫県西宮市のセレブタウン。その街に戻って全てを取り戻すという目標と、地域のために何か役立つ社会貢献をしたいという目的がありました。その強い気持ちが仕事に邁進させていたのでしょう。収入は増えてきましたが、反対に体と心は悲鳴を上げていることに気づかずにいました。

 ホームレス生活の頃は、不思議と風邪ひとつ引かず、健康でしたがホームレス生活を卒業してからは、心の病の他に、腎臓結石2回、急性肝炎、脳血栓、椎間板ヘルニア・・・等々、多くの病気にかかってしまいました。やはり仕事によるストレスが大きすぎたのでしょうか。ホームレス生活は大変でしたが、全てを失うと守るものも無くなりストレスもありませんでしたから。ノーストレスという無菌室からストレス社会という病室に入ったような気がします。

知恵と人脈

 これまでの私は自分を労わるということがあまり理解できていなかったように思います。他人を労わっても自身を労わっていなかったのです。あの街へ帰りたい一心で真っ直ぐに前を向いて進んできましたから。社会人になってから一番つらかった仕事かもしれません。這い上がるための仕事なのですから。

 一日でも早くあの街へ帰りたいという気持ちが日に日に強くなってきます。自分がなりたい姿を強く想像していれば、どんな希望も必ず叶うと信じていましたので、セレブタウンに帰った自分の日常風景を毎日、想像するようにしました。想像することでどんなに苦しい思いも消えるものです。しかし、株券詐欺にあったせいで、その実現が遠のいてしまいました。それは悔しかったです。人の夢まで摘み取ってしまうのですから。

 それでも自分の進む道がはっきりと見えてきました。コンサルタントとして成功を収め、教育と健康業で社会貢献したいというものです。それを人生の最後の仕事にしたいとも決めました。学力低下、高齢化社会の世の中を改善するために微力でも貢献したいという気持ちが強くなってきます。そう考えるようになると不思議と信頼できる人に出会うことが増えてきました。自分が変わることによって出会う人も変わってくると実感したのです。今までの自分の中で一番足りなかった部分かもしれません。

 社会貢献に同感する人から、知恵や人脈も得られるようになりました。自分一人の知恵は微々たるものです。他人様から教えていただく知恵や人脈が膨らんでくることは何物にも代え難い宝物です。自分から発信する言葉がいかに大切かが分かったのです。

永遠の別れ

 人間関係においても前向きに捉えられるようになれた頃、市役所から一通の通知が届きました。封筒を開けると「相続税支払い通知書」が一枚入っていました。私は、何のことか理解できずに市役所に電話をしたのです。

 「相続税支払い通知書が届いたのですが、どういうことでしょうか?」。すると職員は「お父様が亡くなられたので長男にあたる人に送らせていただきました」。私は両親が元気に生きていると思っていましたので、もう一度、聞き直しました。返ってきた答えは同じものでした。

 涙が落ちてくるのを我慢して、私は、職員に言いました。「30歳の頃、両親から将来は姉夫婦に面倒を見てもらうから相続放棄をしてほしいと言われ、署名・捺印をしました。ですので、相続税は姉が支払うことになっています」。すると「お姉さんの住所と電話番号を教えていただけますか」と職員。「姉とは縁を切っていますし、どこに住んでいるのかも知りません。そちらで調べてください」と言った後「母親は生存しているのですか?」と尋ねたところ、「お母様は1年前に亡くなられています」という返事が返ってきたのです。

 電話を切るなり、私の目からとめどもなく涙が溢れてきました。両親が他界したことを知らなかったのですから、もちろん葬儀にも出席していません。縁を切られていたとしても、もっと早く電話の1本でも入れておくべきだったと自責の念にかられました。何と親不孝な息子なのだ。自分を責めて悔やんで嘆くことしかできませんでした。

 高齢だった両親のことは、いつも気にはしていましたが、私自身、這い上がることで精一杯で、両親に対する思いが欠けていたのかもしれません。そのことは今でも後悔し続けています。元気になった私の姿を見せてあげたいという思いはあるものの、結局自分中心でしかなかったのでしょう。今の私にできることは、天国の両親に自慢の息子だと思って貰えるような行ないをすることです。

どこまでも両親の子供でありたい 

 両親と最後に会ったのは、私が社員による持ち逃げ詐欺に遭って縁を切られた時です。その頃の私は、疲れ果てて世の中に背を向けていました。両親にとって、その時の私の一番つらい顔が最後でした。もっと元気な顔で別れたかったと今でも思います。何と親不孝な息子だったのでしょう。

 私は長男ですが、何で縁まで切られなければいけないのかと思ったものです。しかし、両親からすれば縁を切ることは、凄くつらかったと思います。こいつなら必ず這い上がってくると信じながらも断腸の思いだったことでしょう。当時の私は、そんな親の気持ちを察する余裕さえありませんでした。いつか見返してやるという反骨心が強かったのです。ライオンは自分の子どもを崖から落とすといいますが、両親も同じ気持ちだったのかもしれません。きっと私よりも両親の方がつらかったことでしょう。

 何歳になったとしても私は両親のことを自慢できます。厳しく躾けられたおかげで、苦境から這い上がることができたのですから。親は親で子は子です。唯一無二な存在なのです。子どもとして最後を見届けることができなかったことは、一生、私の罪として付いてくるかもしれませんが、親に対する気持ちは誰にも負けないと言える自信はあります。今度、生まれ変わったとしても両親の子どもに生まれたいと思います。

 今でも、夜一人でいると両親のことが思い出されて涙することもありますが、泣いてばかりいても両親は喜ばないでしょう。もっと立派になって私たちを喜ばせてくれと言われているような気がする時もあります。それが私を前に突き進ませる原動力の一つにもなっているのです。ご先祖を供養するということは、感謝の気持ちを伝えると共に、自分と向き合い、生きる意味を考える要素もあるのです。

第9章 反骨心

親の借金

 親子の絆は何があっても切れないものです。私がまだ学生だった頃のことです。こんな出来事がありました。父親が会社を定年退職したのを機に、今までの家を売って、奈良県に新しい家を建てることになりました。退職金を頭金にし、残りは銀行から借り入れ、まだ働ける父親が毎月、返済するという計画でした。当初は計画通りにいっていましたが、ある時、父親が通勤途中に駅の階段から転げ落ちて骨折し、働けなくなってしまったのです。

 父親の仕事は月払い契約のアルバイト契約でしたので、働かないと収入がありません。家のローンも返済しなければなりません。そこで、大学生だった私は、アルバイトをしていましたが、家計を助けるため、時間を増やしました。大阪でのアルバイトが終わって、奈良まで帰るのが最終電車になることも度々ありました。その収入で何とか家のローンの返済ができるようになったのです。

 父親の怪我が治って働けるようになるまで、そんな生活が続きました。友人たちは授業が終わると遊びに行ったりデートしたりしているのを羨ましく思ったものです。私は家のローン返済のために働いているのですから。そんな友人たちを横目で見ながら、いつかはのし上がってやるという気持ちを強く持ちました。

 しかし、午後から夕方までだったアルバイト時間を夜まで延長してもらうことによって、新しい人との出会いもありました。その出会いが会社を立ち上げる時に役立ったのです。その時は、そんなふうに考えていませんでしたから、人との縁は不思議なものです。

姉夫婦の借金

 私の会社が順調だった頃、義兄が経営していた会社が倒産、自己破産をしました。当時、姉夫婦は大きな家に住んでいましたが、敷地の半分を売ることにしました。そのための工事費用を私の実家を担保にし、銀行から借り入れしてくれないかとの申し入れが親にありました。当初、もし返済できなければ親が住む家がなくなるので、私は反対しました。

 しかし、父親は姉や孫が可愛かったのでしょう。銀行から2600万円の借り入れをしました。最初は、姉夫婦は滞りなく返済をしていたのですが、徐々に返済が遅れるようになりました。すると父親から「実家の名義をおまえにするから代わって返済をしてくれないか」と私に言ってきたのです。断ったら両親の住む家が無くなるので、仕方なく承諾しました。毎月144000円の返済です。前妻には反対されましたが、断ることもできず、仕方なく返済をしていました。

 ところが私の会社が持ち逃げ詐欺に遭い、返済できなくなってしまったことで、親の家は、競売になってしまいました。その時、競売になって家を取られるのは、私が返済できなくなったからだと責められました。それは悔しかったですよ。姉夫婦の借金なのに肩代わりして返済してあげていたのですからね。

 両親のお気に入りの家でした。いつも庭で楽しそうに水撒きをしている両親が今でも目に浮かびます。私の事業が順調良くいってさえいれば、こんなことにならなかったのでしょう。それだけに持ち逃げした人物をより憎むようにもなりました。いつの日か、両親に新しい家を建ててあげたいと思ったものですが、もうこの世にはいませんので、無念に思います。

義妹夫婦の生活費

 時を同じくして、前妻の妹のご主人が仕事中に事故に遭い大怪我で、仕事ができなくなってしまいました。個人事業でしたので、それで収入が途絶えてしまったのです。妹は小さな子ども2人を預けて仕事に出ましたが、それだけでは生活費の足しぐらいにしかなりません。親子4人で生活する費用、病院費用等、全く足りなかったのです。

 そこで、前妻から「妹夫婦の生活費を毎月、援助してもらえないか?」と頼まれました。両親の家の借入金を返済している私としては断ることもできず、毎月20万円を援助することにしました。両親と妹夫婦への出費が重なってしまったのです。会社が順調な時でしたので、当時としては、たいした出費ではありませんでした。それで妹夫婦が助かるならば、いいと思っていました。

 それも、私の会社が持ち逃げ詐欺に遭って、当然、捻出できなくなってしまいました。そんな時、やはり聞こえてくるのは、私が悪いという声です。困っている人のために善意でやっていたことなのに、お金が無くなると人は世話になった人にでも罵声を浴びせるのですね。まるで利用する価値がなくなったらポイとゴミ箱に捨てるように

 私は、今まで困っている人がいればできるだけ手を差し伸べようと考えてきました。騙されたことも多々ありました。しかし、助けた身内から「金の切れ目は縁の切れ目」のように扱われるほどつらいものはありません。人間不信になるのも無理はありません。助けてもらっていることが、当たり前になることが、一番恐ろしいことなのだと思います。

 そんな自分に嫌気がさしてしまうこともありますが、それが勉強だと思えるようになると救われるようになります。自分が幸せになるのだという強い気持ちを持てば、未来は開けてきます。私も一時は希望も無くしてしまいましたが、こんな未来を作りたいと思い浮かべるようになると、またやる気も出てきました。

 人を信じられなくなること程、つらいものはありません。自暴自棄に陥ることもあります。しかし、この人は信じてみようと思える出会いは必ずやってくると私は信じています。自分の未来図を思い浮かべてみると、一人では生きていけないことが分かってきます。

思ってもみなかった夢の実現

 いつかは、こうなればいいなぁって思うことは誰にでもあります。私もぼんやりと思っていたことがあります。今までは情報を受ける側でしたが、いつかは発信する側になりたいと思っていました。ブログは8年間、毎日書き続けていましたが、メディアで発信してみたいと考えていました。

 すると私のブログのファンという男性から連絡がきました。その連絡は、「出版社の者ですが、本を出版しませんか」というものでした。最初は、まさかという思いがありましたが、出版社に出向いて初めて本当だったのだと気付きました。本を出版して、仕事仲間から出版記念パーティーを開催してもらったりしたものです。次はラジオで話してみたいと思っていましたら、FMラジオ局から連絡が。「ラジオに出演しませんか」と言われてビックリ!!想像していたことが現実に叶ったのです。それ以後、ラジオには定期的に出演させて頂いています。

 友人にこんなことも話していました。「今度、テレビ局から出演依頼がきたら漫画みたいだね」と。すると本当にテレビ局のデレィクターから連絡が。皆さんがよくご存じの人気番組への出演依頼だったのです。これには本当に驚きました。一生の運を使い果たすんじゃないかと思ったぐらいです。収録当日、テレビ局の出演者専用の受付を通るまでは半信半疑でしたからね。それからは、他局からも出演依頼がくるようになったのです。

 このように思いは願えば叶えることもできるのです。そのためには、一日一日を自分自身と真剣に向き合うことです。目の前の問題から逃げずに戦うことです。そうすることによって、人から評価されますし、その評価は知り合いの知り合いへと広がっていきます。全てがいい方向へと連鎖していくのです。

 何かを成し遂げる時、必ず大きな壁が立ちはだかります。私がホームレスになったことは、これから成し遂げようとしていることへの壁だったのかもしれません。その壁を乗り越えてこられたのも、そこから逃げずに戦ってきたからです。

第10章 言霊

本当の友情

 これまで山あり谷ありの苦難の道を越えてきました。失敗の繰り返しであり、神経をすり減らすことばかりでした。まるで、小船で荒海に出るような苦難の道程。私が苦難に陥ると、去っていった人もいます。気落ちして弱っている自分に甘い言葉を掛けてきた人もいます。今まで私が築いてきた人脈を横取りしようとした人もいます。

 そんな中で、私なりに本当の友情とは何か?と考えたりもしました。困っている時に助けてくれるのが本当の友情と言いますが、果たしてそれだけでしょうか? 自分のことを思い、受け入れてくれる存在かどうかは心で感じるものです。

 私が苦しんでいる時にありがたかったのは、ちょっとした心遣いの言葉でした。何気ない言葉、壁を破る勇気と希望を与えてくれる前向きな言葉にどれほど助けられたことか。お金や物ではないのです。もちろん、お金も必要でした。しかし、それ以上に気遣ってくれる言葉に触れることが、一番の宝物でした。

 何でも相談できる人がいることは、当たり前のことではありません。本当に幸せなことです。愚痴ばかり言っていると、運気も下がってしまいます。困難の渦中にいる人は、孤独感にさいなまれやすいものです。だからこそ“自分は一人ではない”と気付けば、どれほど希望となるでしょうか。自分のことを分かってくれる人がいる、それだけで生きる力が湧いてくるものです。

 他人から裏切られ、傷付けられた人の多くは、復讐心に燃えるでしょう。心に余裕がなくなると次第に不安なことばかり考えてしまいがち。このような状況では当然のことながら感謝の気持ちは湧いてくるはずもありません。実際にまったく余裕がない人がたくさんいます。しかし、友情に感謝することは、精神的な回復力を高めてくれるのです。

信じる力

 言葉に心があるかどうかを判断するのは難しいものです。魑魅(ちみ)魍魎(もうりょう)が溢れかえっている社会にあって、本当を見分ける目を養うことが大切。詐欺に関わるニュースを目にしない日はありません。詐欺師というのは、本当に言葉巧みに心の中に入ってくるものです。それを防ぐには、家族構成や仕事内容、友人関係等、うかつに他人に話さないことです。少しでも隙があれば、そこに入り込んできますからね。

 しかし、社会に出て仕事をしていると、何も話さないというわけにはいきません。そこで、大事なのが相手をよく観察することです。相手を疑うということではありません。自分の身を守るためには自己防衛も必要です。その人にどんな友人がいるか、どんな仕事をしてきたか等をよく観察してみてください。対話を重ねていくと本当の相手の心が見えてきます。

 最初から親しくなる必要はありません。距離を少しずつ詰めていけばいいのです。私が詐欺にあったのは、すぐに他人を信じてしまったからです。友人の紹介だからといって、他人を信じることは以ての外。大きな失敗から私が学んだことです。

 対話を通して本当に相手を信じられると確信してから自分のことを話せばいいのです。対話といっても、こちらから話すだけでなく、まず相手の話をじっくり聞くようにしてください。日々、何を思い、何に悩み、どこを目指しているのか。すると、自身と相手と共通の価値創造に道が開けていきます。相手の“心の鏡”に、こちらの真心を映し出せば必ず通じると思います。

 人との出会いは、相手はもちろん、自らの心も大きく揺さぶります。実現したい目標や決意を話し合ってみてください。勇気と希望の言葉の力によって人生は変わり始めますから。未来がどうなるか、それは誰にも分かりません。但し、「未来の果は現在の因にあり」ということは分かっています。だから今、目先にとらわれず、希望の未来へ、できることから挑戦したいものです。

心に余裕を

 心に余裕がなければ、人の話を素直に聞くことは難しいものです。職場などでの人間関係を難しくしてしまう原因の一つでもあります。
 
 心に余裕がなくなると、不安なことを考えてしまいます。不安のほとんどは考え過ぎ、取り越し苦労です。起こりもしないことを必死に考えてしまうのです。
しかし、心に余裕がなければ、そうした極端な方向へと走ります。

 心に余裕がないと、どうなるか?まず、人が寄ってきません。暗い気持ちは表情に出てしまいます。表情にも余裕がなくなるわけです。人脈という大きな財産を失っているのです。余裕を持って相手と接すると、相手も気持ちよくなり、自分自身も気持ちよくなります。だから心に余裕を持つことが大切なわけです。

 私もそうでしたが、心に余裕がなくなると、将来の計画すら立てることができなくなります。今日や明日のことで頭がいっぱいになり、同じ悩みが頭の中でグルグルと空回りしてしまいます。そんな時は、自分で言葉に出して余裕を与えてみてください。愚痴をこぼすのとは違います。自分の置かれている状況を認識することが大切なのです。例えば、「慌てなくてもいいや」「明日のことは明日に考えよう」「こんなに傷付いたのだから仕方がない」と。そうすると、今の自分の状態を冷静に見つめることができます。毎日、自分を癒す言葉を発していると、気持ちも落ち着いてきますし、人に接する態度も変わってきます。

 心に余裕のある人は、自分をしっかり持っているので、人と比較することはしません。自分の人生をとにかく大事に生きているため、考え方や口からでる言葉も前向きです。また、感謝の気持ちも忘れません。どんなに些細なことでも当たり前と思わず、感謝できるのです。それによって、同じような人も周りに集まってくるようになります。

使命に生きる

 私は、3度の大病と事故、2度の詐欺に遭い、それを乗り越えてきましたが、いつしか、この世の中で果たさないといけない使命のために生かされているのではないかと思うようになったのです。苦しんだからこそ、人に伝えられることがあります。悩み抜いたからこそ、社会貢献の大切さに気付き、人の優しさや気遣いを素直に受け取れるようになりました。

 この世に生きている人には、例外なくそれぞれの使命があります。
のんべんだらりと生きる人もいれば、使命に目覚め、そのために生きる人もいます。人が使命に生き始めると、情熱と歓喜で充実します。使命を生きる人は、外から見ると辛い状況にあっても幸せを感じています。使命に早くから目覚めている人は、社会でも活躍する人が多い気がします。

 物事に挑戦した結果、失敗してしまうこともあります。ですがそれよりも後悔するのは、挑戦したかったのに挑戦しなかったことです。病苦、事故、借金、大切な人との別れ・・・生きていれば様々な困難もあります。だから人生は面白いのです。飽くなき向上心、不断の挑戦の心こそ、人生を勝ち開く鉄則です。

 自分の人生を振り返って、可もなく不可もない平凡な人生だったなぁとは思いたくありませんよね。お金がない、将来が不安だ、年齢的に厳しいなどと言う人がいますが、それは、自分を制限した中で生きているからです。使命とは、まさに命を使うことです。

まずは、これが私の「使命」だ、と動き出すことが重要です。迷っているうちに、短い人生が終わってしまいます。私たち一人一人が使命を生きることは、自分と周りの人たちが共に幸福になる道なのですから。

#創作大賞2022

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