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レヴィナス『全体性と無限』を読む(1)ー《感性的なもの》の超越論的現象学

読んだ箇所

藤岡訳『全体性と無限』p.329 - p.342
第Ⅲ部 顔と外部性
A 顔と感性

メモ

レヴィナスは、「顔」を語る前に「感性」について論じる。感性とは何か?感覚のことだが、それは享受と密接に結びついている。享受は「現実」をありのままに受け取る能力のことだと思われるが、この享受が感性ないし感覚を支えている。対象化の作用によって主観的な感性ないし感覚は抹消されてしまう。享受は対象化ではない。

感覚のうちに客観的性質と対をなす主観的なものを見るのではなく、意識が自我と非-自我から主体と対象に結晶化するよりも「古い」享受を見るとき、感覚は一つの「現実」を取り戻すことになる。

p.330

カントの『純粋理性批判』は、主体の認識は物自体には決して到達できないとしてその限界を示した。しかし、レヴィナスは、カント的な、すなわち、身体が感得する主観的な感覚を排除した「超越論的感性論」を、現象学的な方法によって乗り越えようとしたのかもしれない。

享受としての感覚をめぐる現象学が必要なのかもしれない。

p.332

感覚をめぐる超越論的現象学であれば、感覚という用語に立ち帰ることも正当化されるかもしれない。

同上

感覚と視覚について。「視覚」は「光」の存在を前提とする。たとえ主体が視覚を有するとして、光が空間に満たされていなければ存在を対象化(把握)することはできない。そこで議論は「視覚」の分析へと進んでいく。それは、享受が視覚や対象化に回収されないことを示すためでもある。

プラトンが述べたように、視覚は眼と事物のほかにがあることを前提としている。眼は光を見るのではなく、光のなかで対象を見ている。したがって、視覚とは「なにか」との関わりだが、これは「なにか」ではないものとの関わりののなかで打ち立てられる関わりである。私たちが光のなかにいるということは、虚無のなかで事物と出会うということである。光は暗闇を追い払うことで事物を出現させ、空間を明け渡す。光は、まさに空虚としての空間を出来させるのだ。

p.333

光に満たされた空間は、「虚無の空間」である。そして、この虚無の空間は《ある》(il y a)を想起させる。我々が認識によって事物を対象化可能なのは、光=虚無=《ある》(il y a)だからである。とはいえ、「虚無の空間」は享受を不可能にするわけではない。

空間の虚無は、そこを起点として絶対的に外部的な存在が出来しうるような絶対的な間隔ではない。空間の虚無は、享受と分離の一つの様相なのだ。

p.336

空虚な空間が、こうした関わり[視覚ないし触覚による掌握としての、事物の対象化・事物との関係化]の条件である。

同上

光は視覚(による事物の対象化)を可能にする条件である。光はあらゆる事物を白日の下に晒すという意味で、科学的な思考の条件でもある。ところで、フッサールは現象学によって、数学的思考を「直接経験」によって基礎づけようとした。レヴィナスが現象学に求めるのは、「直接経験」としての主観的感覚を、哲学のうちに吹き込むことなのかもしれない。

科学によって、感性という主観的条件を超越することができるのではないだろうか。しかし、質的科学と、レオン・ブランシュヴィックの著作が称揚していた科学とが区別されるとしても、数学的思考それ自体が感覚と袂を分かっていると考えてよいのだろうか。現象学のメッセージの核心は、この問いに否定で答えることにある。物理的・数学的な科学が到達する諸現実は、《感性的なもの》から発するさまざまな手続きから、みずからの意味を借用しているのである。

p.337 - p.338

まとめ

「享受」は、事物が認識によって対象化される以前の、純粋な現実経験として受け取る能力であるといえる。そして、レヴィナスが「感覚をめぐる超越論的現象学」と呼ぶ現象学の根幹にあるのは、まさにこの「享受」の能力である。このようなレヴィナスの現象学は、「直接経験」をあらゆる学問の根拠として位置付けようとしたフッサール現象学を、見事に踏襲しているように思われる。


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