次の章へ。

人生には時として、「次の章」のページをめくるときがある。
今まさに、私にとって新たな一ページをめくろうとしているとき。

2022年の春から「政治」というトピックが人生に入ってきて、学びながら前へ歩みを進めてきた。ゴールは議員になることではなくその先にあるとわかっていながらも、目先のことに追われる日々の中では常に選択を迫られ、一瞬も羽を休めることなく飛び続ける日々の幕開けとなった。

私はもともと体力がない。精神力だけで様々なことを乗り越えてくるタイプの人間。そして私のエネルギー確保に、肉体的には睡眠が何より必要とされる。そして私の魂は枯渇することはなかった。どこまでも湧き出る思いや感情の高まりの中で常に動き続けた。

思い返せば「何をしたいのか」「何をする人なのか」という問いに2021年くらいから悩まされていた。自分が何かのエキスパートであることは素晴らしいと思う、でも私は。常に興味関心のある方へ進み、正直「行き当たりばったり」「渡りに船」で生きてきたのだ。
その軸は何かと聞かれれば、「人生演出家の神さまにゆだねる」
「自分の思いよりはるかに高いところにある神さまが描く人生を歩む」こと。その方がよっぽど面白いし自分では考え付かなかったことにたどり着けたりする。

私は別に宗教家でも夢想家でもないが、人それぞれに埋められている「タラント」《才能》というのは神様が一人一人に埋めた宝物であると思っている。「タラント」、つまりタレントはだれでも持っているもの。
自分がくなく熱中できることが大抵それだったりする。
「タラント」とはお金の単位でもあって、主人にその財産を預けられた従者たちが、一人は地に埋めてだれにも取られないようにし、もう一人は銀行に預けてちょっとした利益を得、あるものはそれを使って何倍にも増やした、というたとえ話がある。

これこそ、人生における「自分」という素材の活かし方だと思う。
ただ問題は、現代の私たちの生きてきた過程の中で往々にしてこの「自分」はどっかいきがち、見失いがちである。というより自分の中にいるのに、自分ではそれを俯瞰して理解したりとらえたりするのが難しく、人は自分探しの旅に出たりするのだ。
青い鳥と同じで、それは自分の中にあるものなのに。

結局のところ「私は私」。「あべゆりあ」として何をしていくか、そしてその対話は自分自身とだけしていると混乱すし、渦が内側にだけ向いていくので、私は天と対話する。そして自分の原点である小さな女の子のまなざしを感じて生きている。いわゆるインナーチャイルドは言葉で語ってこず、ただひたすらに私を見つめる。今の私を。そのまなざしが私の歩みを強め、時には正してくれる。
絶対的な「あべゆりあ」でいるための自分の文化を大切にする。
私はほかの誰でもない。
私として生きるために神さまに作られ、生かされている存在だ。
だれも私になることはできない。

どこで何をしていようと私は私。
これからはじまる新しい章でも、新しいストーリーが始まるのではなく
「あべゆりあ」という人生の本の次の章が書かれていくだけ。
ありのままの私で前へ進んでいく。

今までやってきたすべてを糧に。
毎日与えられる新しい命を感謝して。

今新しいページをめくるとき。



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