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学び続け、学びの同志を増やし、社会に貢献する存在となる

「戦争」の反対は「平和」。
そのように学校で教わり、
それが「常識」だということで、
特にそれに反論する気はない。

ただ、「戦争」というのは
兵器を使って殺し合う「行為」「行動」
を指しているように感じるのに対し、
「平和」の方はそういった行為・行動が
なされていない「状態」を指している。

この、「行為」「行動」と、
「状態」とが対義語であるというのが、
今一つしっくりこない。
戦争と平和を考えるに相応しい本日、
8月15日を迎えて、改めて言葉の意味を
考えたときに、なんだか収まりの悪さを
ぬぐうことが出来ないのだ。

同様に考える人も多いようで、
「戦争と平和」「対義語」
で検索すると、
「平和の反対は暴力だ!」とか、
「戦争の反対は奴隷!」とか、
意見百出、議論が絶えない様子を
垣間見ることが出来る。

戦争の悲惨さは、広島と長崎に原爆を
落とされて敗戦するに至った我が国の
歴史を見れば明らかであるし、
どの国もみな戦争の痛みを大なり小なり
共有しているはず。

であるにもかかわらず、
直近でもウクライナの紛争をはじめ、
地球上では常にどこかしらで戦争が
続いてきたに等しい。

うがった見方をすれば、
結局は戦争が最も「儲かる」ゆえに、
常にどこかで戦争の種が仕込まれ、
まんまと戦争が継続させられている。
そして、特定の層にその儲けが還流
しているのであろう。

真珠湾で日本軍は卑怯な奇襲攻撃を
仕掛けたことになっているが、
今では、アメリカは真珠湾攻撃を
知っていてあえて攻撃させた
という
のが真実に近いと判明している。

アメリカが仕掛けたABCD包囲網と、
「最後通牒」となったハルノートで、
エネルギー供給の道が断たれた日本が
日米開戦に踏み切らざるを得ないよう
追い込まれたのだ。

戦後、アメリカに都合の悪いことの
書いてある書物はすべて「焚書」となり、
教科書からそれらの記載は消え、
日本の屋台骨を支えていた思想的な部分が
バラバラに解体された。

そういった動きを主導したGHQは、
実はソ連のスパイたちがはびこる、
共産主義誘導の色が濃い集まりだったと
いうこともまた、歴史家の手によって
明らかになっている。

戦前の日本、日本人を、闇雲に礼賛する
ものではないが、少なくとも戦後に
比べれば、自分たちの国は自分たちで
守ろうという気概、責任感にあふれて
いた
ことは間違いない。

残念ながら、戦後の「情報統制」
あまりにも見事に機能しすぎて、
多くの日本人から「考える力」が、
あるいは「考える力」を養う機会が、
奪われてしまった
ような気がする。

経営学やマーケティング、あるいは
行動経済学や心理学などの分野を
学んでいると、消費者にいかにして
モノを買ってもらうよう仕向けるか
にあたり、「情報統制」的な考え
出くわすことがある。

消費者にとって、本当に良いもの、
暮らしの質を上げることに資するもの
であれば、それを消費者に知ってもらう
「テクニック」として許容されることも
あるかもしれない。

しかし、そもそも消費者のメリットに
ならないもの、質の悪いものを、
半ば無理やり売り付けるためにその
「テクニック」が使われてしまうと、
社会全体の厚生が下がってしまう。

マーケティングを学ぶことで、
そういったことにも気付きやすくなり、
社会の一構成員としてより妥当な
ものの考え方
が身に付いたのでは
ないか、そんなことを感じている。

常に意識的に学び続けることで、
社会をより良くすることに貢献する
存在でありたい。
学びの同志を増やしていきたい。

終戦記念日に、愛を込めて。


己に磨きをかけるための投資に回させていただき、よりよい記事を創作し続けるべく精進致します。