日本の造形文化の伝統はアートと相性が悪いかもしれない

前口上

以前Twitterで「美術鑑賞には教養が必要だ」と言ったら炎上しました。「美術」は「自由学芸(リベラルアーツ)」つまり西洋における教養科目に数えられる一制度の訳語なので、僕はそんなことは当たり前だと思っていたのですが、たしかにふつう、学校で「図画工作」は習っても「美術」は習いません。これは明治時代のいわゆる「文明開化」のときに日本が西洋の「美術」という制度を輸入しようとして失敗したからです。

僕は「美術」の仕事をしている人間なので、その辺の認識をみなさんと共有する必要があると思いました。なぜ日本において「美術」がしばしば嫌悪されるのか。とりわけ、「美術=教養」の図式が嫌われるのか。はっきり言ってしまえば「美術」制度の輸入の失敗、「美術」教育の失敗の結果なのです。そう、「美術」は西洋の土着的な制度を指す用語で、人類の普遍的な造形文化を意味しません。

はじめに——「美術」は造形文化一般を指す用語ではない

日本の造形文化の伝統はアートと相性が悪いかもしれない。アート=美術は自由学芸(リベラルアーツ)、すなわち教養である。特に現代美術と呼ばれるカテゴリーは美術に関する言説の歴史を踏まえた上で行われる批評的な営みであり、その作品が何を表現し、何を意味しているかを理解して鑑賞するには相当の訓練が必要だ。しかし、このような物言いは特に日本社会では毛嫌いされる。読者の中にも、「アートの関係者はスノッブでいけ好かない連中だ」という反感を持つ人がいるに違いない。それはなぜか。筆者が推測するに、「美術」という言葉からイメージされる対象が個々人によってまったく違うことが、上記の齟齬の原因ではないかと思う。ある人はこの言葉を美術アカデミーや美術館などからなる西洋的な制度としての「Art」の翻訳語であると理解し、ある人は子供のお絵かきや粘土遊びを含めた人類の普遍的な造形文化を連想する。


いきなり突飛なことを言うようだが、日本はもともと美術に相当する概念や文化を持たない国である。というのも、美術という言葉は日本が近代化する過程で西洋社会が培ってきた制度としての「Art」を輸入するために作られた翻訳語にすぎないからだ。これはあくまでもヨーロッパ人が美術アカデミーを組織し維持する過程で体系化していった西洋独自の慣習や制度の枠組を指す言葉であって、世界中の人間が営む造形文化一般の総称ではない。そして日本は、もともと極めて豊かで強固な造形文化、すなわち(西洋における美術の概念とは異なるが)絵や彫刻、工芸の伝統を持っていたがゆえに、近代化の過程で西洋の美術制度の輸入に失敗してしまった。もちろん、文化の多様性は尊重されるべきだという考え方にのっとれば、このこと自体はかならずしも悪いことではない。だが、西洋的な美術の枠組の中で制作され展示される「現代アート」鑑賞のために必要なそれらの前提が一般にほとんど共有されていない現状が、今年に続発した芸術祭関連の炎上事件をきっかけに再度浮き彫りになったのもまた事実である。これは、近現代美術を研究し、その楽しみを多くの人々と共有したいと考えている筆者にとって大いに憂慮すべき事態だ。


アートはとても楽しい。だが、その鑑賞には一定のハードルがある。しかし、私たちはそのことを学校や社会からほとんど——というよりまったく——教わっていない。時に数十万もの観客を動員する「ブロックバスター展」の興行形態(主催者には大手マスコミが名を連ねる)を見れば一目瞭然であるが、日本において美術は見世物として消費される対象であり、教養の部類として扱われることはめったにない。いわゆる「鑑賞教育」がないがしろにされてきた結果だ。そして、そのような消費のさいには「自由」「感性」「個性」などの言葉が尊ばれ、「知識」や「体系」、「教養」は時に嫌悪の対象にすらなる。では、そのような土壌はいかなる経緯で形成されてきたのだろうか? この問題を考えるために、本稿では、まず西洋の伝統的な美術の概念を説明したあと、日本が近代化する際にその美術制度の導入に失敗する原因を作った「戦犯」として現代美術関係者のあいだでよく名が挙げられる黒田清輝と山本鼎の功罪を紹介する。最後に、現在の若手美術家や批評家、研究者らの間に「美大批判」のムーブメントが起きている現状を踏まえ、日本の現代アートがそもそも美術大学出身者らの特権意識からなる排他的な業界、というようなレベルにすら到達していないという事実を共有する。

そもそも美術は自由学芸(リベラルアーツ)である

そもそも、美術と聞いてどんな対象を思い浮かべるだろうか? 絵画? 彫刻? 建築? あるいは産業分野のデザインを連想する人もいるだろう。たしかに大抵の美術大学には絵画科と彫刻科、建築科がある。それらに加えて近代以降の産業に対応した造形を教えるデザイン系の学科と、芸術学や美学、美術史学などを教える理論系の学科を擁するのが現代日本の典型的な美大の学科構成だ。しかし、なぜそれらが同じカテゴリーに属しているのだろうか? 理論系の学科と産業革命以降の需要に対応した比較的新しい分野であるデザインについてはひとまず保留しておくとしても、絵画、彫刻、建築が伝統的な美術の枠組に同居させられているのは、普通に考えて不自然だ。というのも、絵画は平面に絵の具を置いて一点モノの絵を作る芸術だが、彫刻は立体である。また、建築は建物や広場などの空間の実用性と審美性の両面を追求する芸術だ。それらは本来まったく異なる分野のはずである。


美術というカテゴリーの中に絵画、彫刻、建築を同居させる上記の制度は、実質的には16世紀のフィレンツェに世界初の美術アカデミー「アカデミア・デッレ・アルティ・デル・ディゼーニョ(直訳すると、素描または線描の技術のアカデミーという意味)」を設立した画家ジョルジョ・ヴァザーリの発明である。彼はフィレンツェを含むイタリアのトスカーナ地方の芸術の優位性を主張するためにアーティストの伝記集『画家、彫刻家、建築家列伝』を書き、その中で絵画、彫刻、建築の三技芸を「素描(線描、ディゼーニョ)」の芸術として統合した。その理屈はこうだ。絵画も彫刻も建築も、構想や設計の段階で素描を描く。その素描がないと作品が作れないのだから、絵画も彫刻も建築も素描から生まれていることになる。だからそれらの三技芸は本質的に同じ素描の技術である……と。ちなみに素描や線描を意味するイタリア語のディゼーニョ(disegno)はフランス語でデッサン(dessin)、英語ではデザイン(design)となる(現代英語でデザインといえば産業分野のデザインや「設計」の意味合いが強いが、19世紀ごろまでは「素描」の意味で用いられていた)。


このアカデミーが重視したのが、美術は自由学芸(リベラルアーツ)であるというルネサンス以降のイデオロギーである。自由学芸とは文法学、論理学、修辞学の三学と幾何学、算術、天文学、音楽の四科からなる教養のこと。中世まで、ヨーロッパでは絵画や彫刻などの分野は学問ではなく「手技」だとみなされていたが、幾何学の応用で成り立っている線遠近法を使い、解剖学の知識を探究し、文学の素養をもって物語を造形するルネサンス以降の美術が学問に数えられないのはけしからんということで、同業者の地位向上と福祉の追求、そして美術の学問体系化がアカデミーを中心に進行していったのである。これと同様の制度をイタリア半島の諸国(イタリアが統一されたのは19世紀)やフランス、ドイツ、イギリスなどのヨーロッパ諸国が導入し、発展させてきたのが美術の枠組であって、その言葉の定義には「美術は自由学芸であり、手技だけではなく理論と歴史の体系を持つ」という前提がともなう。


このように、自由学芸すなわち教養としての造形のことを特に美術という。そして、18世紀フランスの百科全書派ドゥニ・ディドロが美術批評の先駆けとされる「サロン評」を書いて以降は、「批評」とその言説史もまた、美術にとって必須の教養になった。いわゆる「現代アートはわけがわからない」問題は、作品が前提とする言説史の知識と体系が多くの鑑賞者にとって未知の領域——普通は学校で習わない——であることに由来する。このような問題を解決するための教育がいわゆる「鑑賞教育」である。欧米の美術館に行けば子供から大人まであらゆる年齢の人々がその鑑賞教育を受けているさまを目の当たりにするが、一方日本の「図画教育」は自由学芸としての美術を教える機能を持っていない。なぜなら日本は、明治、大正期に近代化する過程で上記のような美術制度の輸入に失敗したからである。

「アカデミック」は侮蔑語

どうして日本は西洋の美術アカデミズムの輸入に失敗したのだろうか? 話は明治時代にさかのぼる。ごくかいつまんで言えば、現在の東京藝術大学美術学部の前身である東京美術学校の西洋画科が設立された際に、同時代の洋画家の中でも取り立てて造形能力が高くもなければ美術理論や美術史、美学に精通しているわけでもない黒田清輝が教授として着任するなどの人事(一説には、黒田が旧薩摩藩出身の政治家の家系であることがこの人事に影響しているという)や、その周辺の政治的駆け引きが日本における美術アカデミズムの定着を阻害した要因であると考えられている。

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