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気になる言葉


ハインツ・コフート著『自己の修復』という本の中で出会った、言葉の意味をぼんやり考え続けている。

人間はばらばらの状態で生まれてくる。

人間は繕うことによって生きる。

神の恵みはにかわである。
ユージーン・オニール『偉大なる神ブラウン』

上記はユージーン・オニールの戯曲の一節である。

コフートは「現代人の自己(セルフ)の病理の本質をこれ以上印象的に述べることができるだろうか」と絶賛し、『自己の修復』内で引用していた。

正直「なるほどね」とすぐには思えなかった。
それはコフートの議論に対する私自身の理解の足りなさゆえだろう。

一文ずつ検討し、辻褄合わせの妄想を繰り広げてみたい。

人間はばらばらの状態で生まれてくる?

ばらばらには「一つにまとまらないで分散しているさま」という意味がある。

では「人間はばらばらの状態で生まれてくる」とは「自己」と関連づけて考えるとどうなるのか。

産まれたての子どもは母親との「共生」状態にあるのではなかったか。
そうだとしたら、この場合の「ばらばら」は対象関係を示す表現ではないだろう。

産まれたての子どもという存在は「自分とはこのような人間だ」と語れるだけの経験や意識を持たない。無論、発話機能も習得していない。
(発声や身振りにより、快―不快を示すことは可能だが)

この産まれたての子どもの何も持たない、まっさらな状態を「自己の欠如」とみなしても良いかもしれない。

欠如の意味を辞書で確認しておくと「本来あって然るべきものが抜け落ちていて、足りないさま」とある。

この時点で、身体の中心が丸くくり抜かれた人間が私の頭に浮かんだ。
(自己がどこに宿るか、という議論は置いておく)

この丸い部分を埋めるものを自己と呼ぶならば、成長とともに味わう経験は微細な粒であって、その集合が自己を形成するのだろう。

最終的に自己の獲得が期待されるなか、自己というパーツが抜けた産後間もない状態はたしかに「ばらばら」と言えるかもしれない。

人間は繕うことによって生きる?

「繕う」という言葉からは二通りのイメージが湧いた。

一つは「取り繕う」=擬態のイメージ。
自己の問題に関連づけるなら「偽自己」あたりが妥当だろうか。

自分の欲求や主張を抑圧し、表面的な現実適応を行うのが偽自己と言われている。
(偽自己は自己の問題の一つであるが、その形成過程の可能性について後に軽く述べる)

もう一つは「繕う」=修繕のイメージ。
これは次の文の「にかわ」に引きずられた連想だ。

にかわとは不純物を含んだ医療や食用には適さないゼラチンのこと。
木材などを結合するときに接着剤として使用されるらしい。

成長するにつれ、自分は何が好きで何が嫌いなのか、自分は何がしたいのか、自分はどんな考えを持っているのか……などを知っていく。

その一つひとつが後に「自己」を構成する微細な粒であり、結合を待っている。

しかし、微細な粒(=自己のもと)が順調に蓄積されていかないパターンもある。

育った環境が自分の好みを知ることを許さなかったり、自分の欲求や考えを口に出す機会を奪ったり……その結果「自己」の形成は遠くなり、「偽自己」の源にもなり得る。
年齢を重ねたあとに修繕が必要となるだろう。

修繕には「傷んだり、壊れたりした部分をできる限り最初の水準まで戻す」という意味がある。

ここにきて、自己の問題を抱える人に対して治療関係のなかで発達過程の再演を試み、自己を修繕し、結合の手助けをしようとしていたコフートの治療法が私の頭に浮かんだ。

神の恵みはにかわである?

にかわが「ばらばらの自己」を結合し、「傷んだ自己」を修繕する接着剤だとして、コフートは何を「にかわ」とみなしたのか。

それは「成熟した自己愛」だと思われる。

コフートによれば、人間は発達過程で理想とすることを受容してくれる対象と、自分が良いと思うものに共感してくれる対象を必要とする。

そうした対象は自分の自己愛を満たす「自己―対象」であり、後の理想と野心の基盤となる。

この「自己―対象」が幼少期に何らかの理由で得られなかった場合、自己愛は未熟なまま自己の問題も抱えて成長していく。

無謀なまでの完全性の追求、根拠のない自信、過度な自己否定、漠然とした空虚さ、不安定な自己評価などをコフートは自己に関連する問題として扱っている。

未熟な自己愛を育てなおすため、コフートは自己の問題を抱える人たちの理想化を許し、彼らの主張を傾聴し、共感を示した。

ばらばらだった自己や傷んでしまった自己を初期状態に近い水準に戻したあとで、芽生えはじめた新たな自己を大切に育てていく。

神さまが存在するとして誰にでも等しく降り注ぐのが「神の恵み」だとしたら、コフートは自己の病理を改善する手立ては誰にでもあると考えたのかもしれない。

しかし自己の修復はすぐにできるものではない。

雫を垂らすように一滴ずつにかわを垂らし、集積を始めたばらばらの自己や傷んでいた自己に少しずつ馴染み、ゆっくりとまとまりのある自己を形成していくのだろう。

* *

久しぶりにマジメな文章。😳
コフートの論に沿いつつ、自分の主張も交えて書いてみた。

引用元であるユージーン・オニールの作品に触れるとまた印象は変わるかもしれないけど、現時点ではこんな感じの解釈ということで。

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