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松原移民で市長経験の森下安雄(もりした・やすお)さん ~移民の肖像~ 松本浩治 月刊ピンドラーマ2021年2月号

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森下安雄さん

#移民の肖像
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#松本浩治 (まつもとこうじ) 写真・文

 松原移民としてブラジルに渡ってきた人々の中でも、珍しい経歴を持って過ごしてきた人がいる。森下安雄さん(72、和歌山県出身)は、大阪の布施にある近畿大学を卒業してすぐの1953年、父母と兄弟4人の6人家族でオランダ船の「チチャレンカ号」で海を渡った。現在住んでいる南マット・グロッソ州グロリア・デ・ドウラードス市(以下、グロリア、松原移住地から東に約5キロ)で市長、副市長を歴任した経験を持っている。また、同地で種牛の人工授精を始めた元祖として牧畜業を営むなど、常に先を見越した人生を歩んできた。

「ブラジルに来るまでは、カネッタ(ペン)よりも重いものを持ったことがなかった」と笑う森下さんだが、松原移住地では「エンシャーダ(鍬)を引き」、カフェを育てあげてきた。カフェは比較的よくできたが、「これでは先がない」とカミヨン(大型車)を購入。61年に8年間過ごした移住地を出て、グロリアで砂糖や米などを販売する食料雑貨店を開けた。これが当たった。 その店に1か月に一度必ず来るブラジル人客の存在を、森下さんはいつも気にしていた。読み書きはできないというが、身なりは整っている。「何(の職業)をしているのか」と問うと、「牛飼い」だという。

「ブラジルで成功するには牛飼いだ」と悟った森下さんは、64年頃からグロリア周辺地域に牛を飼い始め、当初は30頭ほどと少しずつ数を増やしていった。しかし、「(大卒の自分が)読み書きもできないブラジル人と利益が一緒では割に合わない」—。考えた末、牛の人工受精を思いつき、実行に移していった。良い種牛を買い求めては人口受精により、牛の品質を高める。近隣のドウラードス市や同州のカンポ・グランデ市の品評会でも好評を得て、少しずつ大牧場主の仲間入りをしていった。

 そうした中、すでに移住地時代に日本に帰ることは考えずにブラジルに帰化していた森下さんは72年、グロリア副市長に立候補し、当選。言葉のハンディはあったものの、76年までの5年間を務めあげた。また、80年半ばにも副市長を務め、当時の市長が1年半で途中退任したために繰り上がり、約2年半、同市の市長にもなった。戦後移住者で市長になることは珍しい事例で、周辺の日系人からも大きな支持を得た。

 森下さんは先を見越したアイデアもさることながら、高校時代に相撲をやっていた時の体力を生かし、今でも周りから「あいつには、とてもついていけない」と言わせるほどのタフさを誇っている。

「同じ移住者の中には、戦前にブラジルに来た親戚がいる家族も多かった。自分たちにとっては、それらの人に頼るところがなかったことが逆に幸いした」と森下さん。日本では「棄民」とまで呼ばれたが、自らの知恵と体力を頼りに大農場主にまで成り上がった。

 今でも思い出すのは、移住地時代のことはもとより、「チチャレンカ号」での移動中のことだ。53年7月に休戦となった朝鮮戦争で韓国側についたアメリカ同盟軍の白人帰還兵が同じ貨物船に乗っており、片言の英語で会話をするなど親しくなった。同船の航路はアフリカ周り。南アフリカ共和国ダーバンで一時下船した際、白人兵と飲み屋に立ち寄ったが、森下さんにはコップが渡されなかった。明らかに人種差別だった。

「いつか、見とけよ」——。

 ブラジルに上陸する前から築かれた反骨精神が、森下さんを現在までのし上げてきた。

(2003年8月取材、年齢は当時のもの)


月刊ピンドラーマ2021年2月号
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