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第60回 実録小説『未来はそう悪くはないぜ』 カメロー万歳 白洲太郎 月刊ピンドラーマ2021年3月号

#カメロー万歳
#月刊ピンドラーマ  2021年3月号 HPはこちら
#白洲太郎 (しらすたろう) 文

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 2021年2月8日、時計の針は午後18時30分を示している。

 外はすでに夕闇に包まれており、夏とはいえ肌寒さを感じさせるが、白洲太郎とかれの妻になる予定のちゃぎのは汗をかきながら出発の準備に大慌てであった。なんとなれば、バイーア州の州都サルバドールへの直通バスが19時に出発するからで、これを逃すわけにはいかない。去年の暮れにやむを得ない理由によりサンパウロへ旅行した2人であったが、それから2か月も経たぬうちのGo To トラベルである。サルバドールでの主目的はちゃぎののやんごとなき事由によるものであったが、そんな用事などは半日もあれば終わってしまう。であれば、せっかくだから観光でもしてやろうか、という流れになるのは必然で、さらにいえば、世界文化遺産にも登録されているサルバドールのペロウリーニョ地区付近は、太郎とちゃぎのが初めて出会った思い出の場所でもある。2人は慌ただし気に準備を済ませると、サンダルをつっかけてバス乗り場へと向かった。

 2か月ぶりの遠出である。身辺に鋭い目を光らせ、常に警戒を怠らない太郎であったが、どこかに油断があったのだろう、2人肩を寄せ合って慎重に歩いているはずであったのに、道のでっぱりにつま先を強打し、往来のど真ん中で絶叫、バス乗り場に着く頃には血をダラダラと滴らせながら息も絶え絶えの体たらくであった。

 苦悶の表情でバスの運賃を支払い、定刻通りに乗車できたはいいが、恐る恐る傷の程度を調べてみると、親指からは血がジュクジュクと滲み出ているし、人差し指の皮もベロンと剥けている。慌てて絆創膏を貼ったが、貼った先から血がぬらぬらと流れ出し、なんとも心もとない。ズキンとした痛みが脈を打つようにリズムを刻み、なんでオレがこんな目に。と、太郎は唇を噛んだ。用心しているつもりでも、肝心なところで決まりきらないのがこの男の特徴である。ちゃぎのはそんな太郎をやれやれといった様子で眺めていたが、バスの揺れにウトウトし始め、やがて深い眠りの中に落ちていった。 

 朝焼けのゆるやかな光が車内に射し込んでいる。眼をこすりながら窓の外を眺めると、慣れ親しんだ田舎の風景は姿を消し、高層ビルやデパートといった巨大な建物が天空高くそびえ立っている。車の往来もしきりで、あと小1時間もすればサルバドールの長距離バスターミナルに到着するはずであった。太郎は昨夜負傷したつま先を慈しむように撫でていたが、相変わらず血は滲んでいるし、痛みも消えてはいない。しかしどうにか歩くことはできそうで、その点は不幸中の幸いであった。

 サルバドールに着くと、時刻はすでに午前8時を回っている。久しぶりのマクドナルドでビッグマックを頬張った太郎であったが、昔ほどの感動はなく、気をつけていたにもかかわらず、ちゃぎのはアップルパイで口の中を火傷していた。どうにもボンヤリとしたカップルである。腹を満たしたあと、とりあえず今回の宿泊先に向かおうということになり、2人は地下鉄に乗ってペロウリーニョ広場の最寄り駅まで行くことにした。そこから10分ほど歩くとCores do Pelôというホステルにたどり着く。ここが今回の宿泊先であった。ロケーションは最高で、なんとペロウリーニョ広場の目の前である。部屋からは広場が一望でき、カポエイラをしている者もいれば、太鼓を打ち鳴らしている者もいる。伝統衣装に身を包んだ黒人女たちの姿も顕著で、いずれも観光客用の見せ物であったが、まさにこれぞバイーア、これぞサルバドールな風景であった。

 2010年、太郎とちゃぎのはこのペロウリーニョ広場で運命的な出会いを果たしたのである。あれから11年が経ち、まさか自分の隣にちゃぎのがいてくれるとは夢にも思わなかった太郎であったが、人生何が起きるかわからないものである。当時の太郎は、バックパッカーとして数十か国を放浪したのちブラジルに漂着、とある日本人宿に居候し、サルバドールの街を日がな一日フラフラするという日々を送っていた。一方のちゃぎのは女友達と2人でカポエイラ修行に来ていた短期旅行者であり、約10日間、この世界遺産の街に滞在していたのである。無職の貧乏旅行者である太郎と、日本で定職を持ち、数日もすればブラジルを去って行くちゃぎのとの接点はまったくないはずであった。しかし慣れぬ異国で同郷の者を見かけたときについ抱いてしまう親近感、それが命とりになった。ペロウリーニョ広場で何をするでもなく佇んでいる謎の東洋人に、ちゃぎのの連れであるビクリンが興味本位で話しかけてしまったのである。それが太郎とちゃぎのの出会いであった。ビクリンじゃない方に一目惚れをした太郎はその日から猛アタックを開始したが、日本に帰る予定もなく、ただ海外をフラフラしているだけの男が相手にされるわけがない。数日間、あの手この手で意中の相手に接近を試みたが、結局、手すら握らせてもらえずに撃沈したのであった。

 しかしなんという運命の悪戯か、数年後、ちゃぎのは再びブラジルを訪れ、露天商へと転身を遂げていた太郎に口説かれてしまうのである。それまで普通のOLとしての道を歩んできた彼女であったが、その人生はエキセントリックなものへと変貌していくのであった。

 ホステルにチェックインした太郎とちゃぎのはシャワーで汗を流し、思い出のペロウリーニョを歩くことにした。11年前は手すら握らせてもらえなかったちゃぎのの右手をしっかりとつかんで、2人は古都サルバドールの街並みにとけていく。

 フラれて落ち込んでいた11年前の自分に、太郎はふとエールを送ってやりたい気持ちになった。

 頑張ってればいいこともある。

 未来はそう悪くはないぜ、と。


月刊ピンドラーマ2021年3月号
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