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【日本史1】日本列島と日本人

現在ムンディ先生のYouTubeで日本史を勉強しており、筆者の汚いメモとAIを使って日本史をまとめていこうと思います。

Historia Mundi『日本列島と日本人』筆者メモ

※このページには、人間の執筆とAI生成の要素が含まれています


時代

更新世

更新世(こうしんせい)とは地質時代の区分の一つで、約258万年前から約1万1700年前までの期間を指す。新生代の第四紀を二分したときの前半の世で、洪積世、最新世とも呼ばれる。

更新世は氷河時代とも呼ばれ、数万〜10万年の周期の氷期と比較的暖かい間氷期が繰り返し現れた。古気候、海水準の変動、生物群の変遷、火山活動などに著しい特徴がある。

更新世は前期、中期、後期に分けられ、前期はさらにジェラシアン及びカラブリアンに分けられている。後期更新世は12万6000年〜1万1700年前で、現在タランティアンの名称がIUGS-ICS(国際層序委員会)で検討されている。

更新世は人類の出現した時期で、原人が出現しホモサピエンスに進化した時代として注目されている。人類の歴史では旧石器時代にあたる。

更新世のあと、1万年前以降の日本列島が形成された時代は完新世である。1万1700年前に最後の氷河期が終わり、そこから先は暖かくなったので人間は農耕や牧畜を始めた。


氷河時代

氷河時代とは寒冷な気候により地球上の広い地域が氷河に覆われていた時代で、地質時代の一つである。一般的には新生代第四紀更新世(約258万年前から)を指し、地球上では過去に少なくとも5回の大きな氷河時代があったとされている。

氷河時代には、氷河時代の中でも気候状態がより厳しい時期とより温和な時期が存在し、それぞれ氷期と間氷期と呼ばれる。氷期は温帯地方にまで氷河が発達した時期、間氷期は高緯度地方に氷河の後退した時期を指す。

地球は過去80万年の間、4〜10万年も続いた8つの氷河期を、それぞれの間に温暖な間氷期を挟んで繰り返してきた。もっとも気温が低かったのは約2万年前といわれており、この時には現在の3倍の面積の氷床が地表を覆っていたらしい。

現在は氷河時代である第四紀氷河時代の間氷期にあり、第四紀の最終氷期は約11,700年前に完新世が始まると同時に終わった。およそ1万2000年前には氷河期が終わり、地球は急速に温暖化が進んだ。北極、南極や山岳の氷河の大量の氷が解け出して海面は上昇し、日本は大陸から分離して列島となった。


大型動物

マンモス

日本では北海道で12点、島根県日本海の海底約200メートルから1点の計13点のマンモスの化石が発見されている。

マンモスは更新世後期にユーラシア大陸北部および北アメリカ北部の寒冷地域に生息していた長鼻目ゾウ科の哺乳動物で、現在は絶滅している。最終氷期に北海道まで南下したことが知られているが、本州からは化石が発見されていない。

マンモスは氷河期の中・高緯度地域に広がった広大な草原で生活していた。気候の温暖化で草原が縮小したことや、人間などによる狩猟が原因で絶滅したのではないかと考えられている。

マンモス動物群の仲間のヘラジカ、オオツノシカ、ヒグマ、サイなどの化石は、岩手県、長野県、岐阜県、広島県、山口県、福岡県などの本州の各地から発見されている。


ナウマンゾウ

ナウマンゾウは約40~2万年前に九州から北海道まで広く生息していたゾウで、日本各地で見つかっている。千葉県印旛沼、北海道幕別町忠類、東京都日本橋浜町、神奈川県藤沢市などからまとまった化石が見つかっており、骨格復元が行われている。

ナウマンゾウは体長5~6m、肩までの高さは2.5~3mで、2m以上もある牙を持っていた。頭の骨は横から見ると四角く、ひたいの上の方が前へでっぱっているのが特徴である。牙はマンモスゾウほどではないが、よく曲がり、ねじれている。

ナウマンゾウは約34万年前に出現し、寒冷期で陸橋が形成された約43 - 30万年前に日本列島への渡来があったと考えられている。中国大陸から朝鮮半島を経由して移動してきたと考えられており、約2万年前頃から衰退し約1万5000年前の新生代・後期更新世に絶滅したとされている。

ナウマンゾウの名前は明治時代に日本に来た地質学者ナウマンにちなんでつけられた。1867年に現在の米海軍横須賀基地である横須賀製鉄所の敷地内から見つかったナウマンゾウの下あご化石は、ナウマンによって研究された歴史的な標本で、科学的に研究されたはじめてのナウマンゾウ化石である。

ナウマンゾウの化石は野尻湖のほか、千葉県印旛沼、北海道幕別町忠類、東京都日本橋浜町、神奈川県藤沢市、新潟県柏崎市、糸魚川市、妙高市、佐渡沖の日本海海底などから発見されている。


化石人類

浜北人

浜北人(はまきたじん)は静岡県浜松市浜北区根堅岩水寺にある根堅洞窟から1960年から1962年にかけて発見された旧石器時代の化石人骨である。本州で出土した唯一の旧石器時代の化石人骨で、人類学や考古学の研究に貴重な資料となっている。

浜北人は脳頭蓋、下顎智歯、脛骨片、鎖骨、上腕骨、尺骨、腸骨などの骨片からなる20代女性のものと推定される同一個体の化石で、フッ素含有量の測定結果から1万5000年から3万年前と推定されている。縄文人と類似した形質から、その祖形と推測されている。


港川人

港川人(みなとがわじん)は沖縄本島の八重瀬町にある港川石灰岩採石場で1968年に大山盛保によって発見された新人に属する化石である。約1万8000年前のものと推定され、4個体分以上の骨格が出土している。顔つきや体つきを詳細に復元できることから、日本の旧石器人の代表例とされている。

港川人の特徴は次のとおり。

  • 身長は比較的低く(男性153cm、女性143cm)

  • 眉間(みけん)が大きくふくらむ

  • 顔は低くて幅広い形をしている

  • 上半身の骨が細く、腕は細めである

  • 頭骨は現代人よりやや大きく、全身の体型は胴長短足である

  • 下半身の骨はそこそこ丈夫で、荒れた地面を走り回るには適した体といえる

東邦大学などによるDNA解析の結果、港川人は現代日本人の「広義の祖先」であることが分かっている。アジア人の祖先の集団に属していたものの、縄文人や弥生人、現代日本人のいずれとも特徴が異なり直接の先祖でないことがわかっている。


山下洞人

山下洞人(やましたどうじん)は1968年に沖縄県那覇市山下町の山下町第一洞穴遺跡で発見された、約3万2000年前の旧石器時代の化石人骨である。大腿骨、脛骨、腓骨各1本で、8歳程度の幼児(女子)のものと見られている。放射性炭素年代測定法の結果は約3万2000年前の更新世後期であることを示し、現生人類の人骨であることがわかっている。

山下町第一洞穴遺跡は1962年に発見され、日本最古とされる山下洞人の人骨や旧石器が出土している。この遺跡は沖縄県にも数万年前の旧石器時代から人が住んでいたことを証明してくれた重要な遺跡である。

山下洞人は骨の形態、頑丈さなどの特徴から、現代人の祖先である新人に分類され新人としては日本最古の人骨であると発表されている。また2001年の再検討結果によると、推定年齢は6歳で、大腿骨には古代型人類とホモ・サピエンスの特徴がモザイク的に入り混じっているという。


おわりに

世界史も同時にやってると、日本の歴史がどんだけシンプルかっていうのを痛感します。そもそも我が国はずっと“日本”であり“日本人”だからね。大陸は侵略したりされたりで複雑だもんね。

西アジアや地中海世界で争い合ってる頃、日本はずーっと縄文時代という。まあ平和が一番ってことで。

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