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【日本史2】縄文文化の成立

現在ムンディ先生のYouTubeで日本史を勉強しており、筆者の汚いメモとAIを使って日本史をまとめていこうと思います。

Historia Mundi『縄文文化の成立』筆者メモ

※このページには、人間の執筆とAI生成の要素が含まれています


縄文文化

縄文文化は紀元前約1万年から紀元前約500年頃の間、日本列島で栄えた文化である。縄文文化の特徴は、土器の発明と定住生活の実現である。縄文土器は縄目の文様が付けられており、時代や地域によって多様な変化が見られる。土器は道具としてだけでなく芸術性を高めるために文様や装飾が施されており、世界の土器文化の中でも異彩を放っている。また縄文人の精神世界を反映した土偶を作り、それらを使った儀式も行われていたと考えられている。

縄文時代の人々は狩猟・漁労・採集を生活の基盤として、竪穴住居を建てて定住生活を送っていた。縄文時代は今よりも気候が暖かく、クリやクルミなどの実がなる木がたくさん育ち、豊かな森が広がっていた。人々は森の恵みである木の実や山菜、キノコなどの植物を採って食べていた。また森にいるシカやイノシシ、ノウサギなどの動物を捕まえるため狩りをしていた。

縄文文化は地球温暖化による環境の変化への対応という形で、旧石器人に北方ユーラシア大陸からもたらされた様々な要素が取り入れられて形成されたと考えられている。


縄文土偶

縄文土偶は縄文時代に作られた土製の人形で、その形状から女性像であるとされている。生命を育む女性の神秘と力を表現し、呪術や祭祀の道具として豊穣や出産を祈るために用いられたと考えられている。

縄文土偶は約1万年のほとんどで作られ続け、その形態の発展とともに当時の習俗やマトリ(最古の土器の一つ)の形に迫る情報をも現代の私たちに提供している。

縄文土偶には次のようなものがある。

  • 遮光器土偶

20㎝以上の大形のものと15㎝程度の小形のものがある。大形のものは数が少なく摩耗がほとんどないが、小形のものは数が多く磨耗が著しいものがほとんどである。

  • 勝坂式土器様式の土偶

縄文時代中期、中部高地から関東地方西部を中心に栄えた土偶様式で、大胆な造形と様々な姿形のものが多い。しかしそのほとんどはバラバラで、故意に壊されたような状態の破片で出土している。

  • 縄文のビーナス

長野県茅野市米沢地区の棚畑遺跡から発掘された土偶で、妊娠した女性をかたどっている。八ヶ岳山麓の土偶の特徴と造形美を合わせ持つことや、当時の精神文化を考えるためにも貴重な学術資料であることから、1995年6月15日に縄文時代の遺跡から見つかったものの中ではじめて国宝に指定された。

2020年時点では全国で5箇の土偶が国宝に指定されており、いずれも東日本で出土している。


弓矢

縄文時代にはそれまでの投げ槍から変化した弓矢が狩猟道具として盛んに使用され、狩猟方法に大きな変革をもたらした。弓はイヌガヤやニシキギ属(マユミなど)、カバノキ属(ミズメなど)、ムラサキシキブ属(ムラサキシキブやコムラサキなど)の弾力のある樹木で出来ており、矢の先端には黒曜石やチャートなどの石を加工した「石ぞく」と呼ばれる石器がつけられていた。弓矢によって人々は遠くからでも安全にシカやイノシシ、ウサギ、鳥などの獲物を仕留められるようになった。

縄文時代の矢じりは小型(全長3cm未満・2g未満)で、遺跡からは数多く発見されている。戦国時代を経て火縄銃が登場するまで武器の主流として戦術の要を担い、様々な「弓術」も誕生した。


縄文土器

縄文土器は縄文時代(紀元前14,000〜紀元前1,000年頃)に作られた土器で、縄を使った文様やひも状の粘土で形作られた装飾が特徴である。縄文土器は日本各地で出土しているが、地域や時代によってデザインは多種多様である。

縄文土器は主に素焼きで、厚手なのが特徴である。器種としては深鉢形土器が多く、作りが粗雑な土器と精巧な文様を施した土器に分けられる。前者の土器を粗製土器、後者の土器を精製土器と呼び、粗製土器の方が大きく出土量も多い。

縄文土器は日常的な調理のほか、祭祀にも用いられたと考えられている。土器の文様の中には土器をぐるっと回してみると物語を表現しているようなものがあり、当時の宇宙・世界のこと、ムラとムラとの関係、人と人の繋がりを表現していると考えられている。

縄文土器という名前の由来は、明治10(1877)年にアメリカ人動物学者エドワード・S・モースが東京都大森貝塚を発掘し、出土した縄目のついた土器などを総称して「Cord Marked Pottery」と呼び、日本語訳されたことに始まる。


草創期

縄文土器の草創期は約1万2000〜9000年前で、旧石器文化から縄文文化に移り変わる頃に世界最古の土器が発明された。草創期の土器は平底深鉢土器や丸底深鉢土器などがあり、口縁部が大きく開いている。文様は撚糸圧痕や羽状縄文、組紐、付加条などと呼ばれる繊細な縄文が施されるのが特徴である。また半截竹管や櫛歯状工具による沈線で文様が施されるほか、爪で付けた模様の爪形文土器や細い粘土紐を貼り付けた浮線文で文様が施された土器も出現している。


早期

縄文時代早期の土器は円形の尖底や丸底深鉢の単純な形をしており、縄文、撚糸文、押型文、貝殻文などの独特な文様を発達させている。

縄文時代早期の土器は、地域によって特徴が異なる。西日本では押型文系土器が盛んで、東日本では撚糸文系土器が主に作られた。押型文とは硬いものを押し付けて作る模様で、撚糸文は普通の縄よりも細い撚糸を用いて文様をつけたものである。


前期

縄文時代前期の土器は、約7,200年前から約5,500年前にかけて作られた。前期には丸底または尖底の土器に植物の繊維を混ぜた「繊維尖底土器」や、縄目模様の「羽状縄文系土器」などが出現する。また中部・関東地方では、煮炊き用以外として初めて貯蔵用の壺や盛りつけ用の鉢などが作られるようになった。

縄文時代前期の土器の特徴は次のとおり。

  • 縄文の縄目が太い「綱文式」の土器

  • 縄文の向きが横方向に統一されている

  • 羽状縄文系土器は、広口の部分が羽根のように伸び広がり、腹の部分には縄目の文様がびっしりとつけられている

  • 底の部分が尖ってなくて、地面に定着するようになっている


中期

縄文時代中期の土器は厚手派と呼ばれ、ずっしりとした豪快な土器が特徴である。中期前半までは「押型文(おしがたもん)」と呼ばれる文様を使った土器が多く、中期後半からは大部分が縄文でおおわれた土器が中心になる。後者の、中期後半から後期初頭の土器は「北筒式土器(ほくとうしきどき)」という名前で知られている。

また縄文時代中期の土器は造形的な意思が強く働き、腹面の模様の多様化や広口部分の装飾性などが特徴である。縄文土器の中でも最も装飾的で、優れた造形力をみせる縄文中期に作られた「火焔型土器(かえんがたどき)」も登場する。


火焔型土器

火焔型土器(かえんがたどき)は縄文時代中期に日本列島各地で作られた土器の一種で、燃え上がる炎を象ったような形状をしている。約5,000年前に誕生し、縄文土器を代表する土器のひとつである。

火焔型土器は新潟県長岡市・馬高遺跡で1936年に発掘された土器が「火焔土器」と呼ばれたことがきっかけで、同じ様式の土器が多く発見されるようになり、火焔土器とは区別するために「火焔型土器」と呼ばれるようになった。

火焔型土器は縄文土器の中でも装飾的で、優れた造形力を見せている。全体を覆い尽くすように装飾が施されていることから、儀礼用の器ではないかという説もある。

火焔型土器は長岡市を南北に縦断する信濃川流域で多く出土しており、その規模と密集度は日本有数である。また新潟県笹山遺跡から出土した土器や石器は、1999(平成11)年6月に「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」として国宝に指定されている。


後期

縄文時代後期の土器は約4,000〜3,000年前のものとされ、さまざまな形が作られた。壺や注口土器、香炉の形をした土器など、まじないや祭りに使われたと見られる変わった形のものも多くなっている。文様は複雑になり、縄文を磨り消して磨いて光沢を出す「磨消縄文」の手法が盛んに用いられた。

また縄文時代後期には、墓に土器や石器などを一緒に埋める風習も盛んになった。墓に入れる土器には実用品より特殊な形や装飾的な文様のものが見られ、小型の土器も多く見つかっている。


晩期

縄文土器の晩期は約3千年〜2千3百年前の時期で、東北地方に広く分布する土器は亀ヶ岡式土器とも呼ばれている。黒光りする土器や複雑な文様を浮き彫りや透かし彫りにした土器など、高い技術で作られるものが増え皿や高坏など盛りつけ用の土器も発達する。また墓に土器や石器などを一緒に埋める風習も盛んになり、墓に入れる土器には実用品より特殊な形や装飾的な文様のものが見られる。

縄文時代晩期後半(約2500年前)になると、土器は日本列島の東西で差が明確に出てくる。西・南日本は無文化・単純化した文様になり、東日本は東北北部の亀ヶ岡式系土器に強く影響されたようである。


亀ヶ岡式系土器

亀ヶ岡式系土器(かめがおかしきどきけいどき)は縄文時代晩期(前半頃)に東北地方から南北海道にかけて流行した土器の総称で、台付鉢形土器に分類される。文様は入組文と羊歯状文の組み合わせが特徴である。

亀ヶ岡式土器は青森県つがる市にある亀ヶ岡遺跡の土器を基準としており、亀ヶ岡文化圏の遺跡からは内反りの石刀や小型の板状土偶、円板状土製品、三角形土製品、糸巻状土製品などが多く出土している。

亀ヶ岡式土器は岩手県大船渡市大洞貝塚から出土した土器をもとに設定された大洞式土器とも呼ばれ、ウルシなどの顔料が塗られていることが多く、工字文という文様が見られる細分型式である「大洞A式」もある。


新石器時代

新石器時代は今から約1万年前から始まる石器時代の新しい段階で、農耕や牧畜が始まり人々が集落を作って定着した時代である。土器や磨製石器が広く使われ、巨石記念物が築造された。

日本では縄文時代が新石器時代にあたるが、農耕は晩期まで見られず牧畜も行われていないため、新石器時代とは呼ばない場合もある。縄文時代には打製石器に加え磨製石器の石斧や石棒が現れ、縄文土器の使用に加えて弓矢が使用されるようになり、定住化の始まりによる竪穴建物の普及、環状集落等の定住集落や貝塚の形成、植物栽培(半栽培)の始まりなどが挙げられる。

新石器時代と旧石器時代の違いは、使われていた石器の違いで分けられる。旧石器時代は木の実や動物の肉を食べていたが、新石器時代は更に麦やあわ、稲を栽培して食物にしていた。


打製石器

打製石器(だせいせっき)とは石を打ち欠いたり剥いだりして作られた石器の総称で、磨きを伴わないものを指す。旧石器時代から縄文時代、弥生時代にかけて作られており、日本では先縄文文化の石器はすべて打製石器である。

打製石器には石の両面を打ち付けて芯の部分を残した「石核石器(せっかくせっき)」と、剥いだ石片を利用した「剥片石器(はくへんせっき)」に大別される。日本では後者の剥片石器が主流で、黒曜石やサヌカイト、頁岩などの石材に他の石や鹿の角、動物の骨などを打ち付けて先端を尖らせ、石斧や槍、切り出しナイフとして使用していた。

打製石器で木の実や植物を採集したり、動物を捕らえたりして食料にしていた。石斧は動物を殺したり解体したり、木を切ることに使ったと考えられており、直接手で握ったり短い柄をつけたりして使用していた。ナイフ形石器は包丁のように肉や皮を切るために使用していたと考えられており、尖頭器は木の棒に取り付けて槍として使用していた。

打製石器は1949年に相沢忠洋が群馬県の岩宿遺跡で初めて発見し、日本に旧石器文化が存在していたことが明らかになった。


磨製石器

磨製石器(ませいせっき)とは砂や砥石などで石の表面を磨いてデコボコをなくした石器である。縄文時代に入ってから作られたとされ、新石器時代の指標とされていた。

磨製石器は石を打ち砕いて作る打製石器の後に登場し、土器とともに農耕の段階に達した新石器時代の象徴とされている。磨製石器は打製石器よりも鋭く、使いやすく、様々な形に加工できるため生活のなかで様々な用途に使われていた。

磨製石器には石斧、石鎌、石剣、石棒、石皿、石臼などがあり、生産用具としての他、武器や祭祀用具としても用いられた。特に石皿や石臼などの穀物の生産・加工のための用具でもあり、磨製石器の出現が農耕社会への移行を示していると考えられている。

磨製石斧には柄に対して刃が平行する縦斧、柄に対して刃が直交する横斧、ドーナツのような形をした環状石斧などがある。縦斧は主に伐採・粗削り用、横斧は木の表面を整えたりする加工用に用いられ、環状石斧は中央の孔に柄をさして使用していたと考えられている。


おわりに

縄文時代はめちゃくちゃ長いからね、一方その頃世界史ではいろんな事が起こっていくという。まあ日本史も“歴史”として動き出すのは弥生時代以降なので、これからワクワクが始まっていくのですよ。

―おわり―


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