映画「オッペンハイマー」に被爆国はどう向き合うべきか?
(*本記事は、部分的に映画「オッペンハイマー」の内容に触れます。)
「ダークナイト」でお馴染み、ノーラン監督の最新作「オッペンハイマー」。
この作品は多部門のアカデミー賞に輝いた。
個人的に、原爆を生み出した学者、オッペンハイマーの半生を描いたという内容から今作が気になっていた。原爆を落とした側のアメリカが、どの様にこの作品を描くのだろうか。
これから書く文章は、感想文なのか、映画を題材にした随筆なのか、とても曖昧なものになってしまった。
取り留めのない文章を、どうかご容赦願いたい。
私欲は世界平和よりも優先される。
その頻度は割と多い。
この映画では、全編を通して、一人のエゴによりオッペンハイマーが核兵器使用の差し止めを主張する舞台から引きずり下ろされる過程が描写される。
最近では、ウクライナ侵攻におけるプーチンの私欲による暴走が取り沙汰される。
しかし、行動の規模は違えど、この類は政治家のエゴに限った話だけではないと思うのだ。
世界中の殆どが世界平和を望む人で占められているのは、想像に難しくないと思う。
しかし、その中で何人実現に向けて意識がけやアクションを起こしているのだろうか?
大半の人は、その重要性を認識しながら目先の利益を追い求めている。
ディスカウントストアでフェアトレードコーヒーの横に安い徳用コーヒーが並べられていると、値段の安い徳用品を選ぶ人が一定数出てくるだろう。
この徳用コーヒーの安さの皺寄せは産地の劣悪な労働環境に及ぶ。
徳用コーヒー購入者は、お得な買い物に満足をしたまま、対岸の火事にうしろめたさを感じる事は少ないだろう。
不平等に対する責任は、世界中のサービスに薄く広く散りばめられる。
そのため、それらが本来持つべき背徳を感じる事は難しい。
我々の周りには、常に「平和か否かの選択肢」が付き纏い、その多くは看過されている。
数字と道徳は永遠に分かち合うことができないのか?
戦争や災害、そして経済を始めとする全ての事象に、「数字」は指標として機能する。
ワクチンの普及で死者が1000人減った。
インバウンド需要でGDPが2%上がった。
世の中はこれらを「ベター(もしくは「マシ」)」だと感じる。
では、以下の場合はどうだろうか?
感染症が流行り、薬品の製造が盛んになりGDPが上がる。
相手国2万人殺すことで、自国相手国トータル3万人の死者を減らせる。
いずれの事象も、見方により感想が大きく変わると思う。
数字は、人を安心させる。
数字は、人を納得させる。
数字は、人を自信家にさせる。
数字は、人を盲目にさせる。
数字は、人を欺く。
日本に住んでいると、中々聞く機会のない「原爆の合理性」がこの映画では観客に伝えられる。
「原爆こそが、この戦争を終わらせられ、且つトータルの死者をミニマムにできる手段である。」
しかし、次第にこのような疑問を持つ事になるだろう。
「原爆の合理性」は良心の呵責の原因となっていないのか。
広島と長崎で焼き払われた20万人の遺体は、世界平和への尊い犠牲なの?
私たちは「性善説に基づけない世界」に住んでいるかもしれない。
この映画で個人的にポイントだと思った事は、敵国の脅威の存在が核開発を推し進めたという事だ。
覇権主義の国に対して弱腰でいることなんて、もってのほか。
恐れは、兵力の準備を激しく助長させる。
その準備があまりにも十分になされてしまった時、もう後戻りができない。
オッペンハイマーの時代から半世紀以上たった現代、当時と状況が非常に似ている。覇権主義の国が周辺地域に威嚇を止めない。
周辺国は、恐れるだけではだめだ。
これは、ベストな選択肢が一つ消えていった瞬間だったのかもしれない。
グローバル社会のあるべき姿・・・
例えるなら、日本のラーメンがパリで美味しく食べられる事。
私たちはこの程度の幸せを望んでいたはずなのに・・
「誰かの頭の片隅に残る物を生み出す事の重要さ」を認識する。
過去に、宮崎駿がドキュメンタリー番組にて、映画作品の社会への影響力について言及していた。
番組中の彼のコメントは、映画が与える社会への影響力の強さ、あまり肯定的ではなかった。
映画一つで、世の中が変わる事は確かに難しい事だと思う。
しかしながら、宮崎駿やノーラン監督の作品となるとリーチする観客の数は相当な数になる。
彼が、この作品を通じて、何を考えているのか・何を伝えたいのか?ある観客は、作品を通じて考えるだろう。
彼らの映画の集客力を考えるに、この様に考える人の数が他の映画と比べても根本的に多いと思うのだ。
彼らの作品は、社会を映す鏡だとも言えるかもしれない。
仮に、映画を見た後の観客が、普段の日常を変わらず送るとしても、頭の片隅にその作品の何かが残り、いるの日か、それを思い出す瞬間が訪れたなら、これこそが自分の考える「作品の可能性」なんだと思う。
「可能性」としたのは、人を突き動かす原動力と必ずなるかは分からないからだ。
大事なものは、誰かに届く「可能性」を産み続ける事だと思う。
自分の作る記事も、そんな「可能性」であってほしい。
映画「オッペンハイマー」に被爆国はどう向き合うべきか?
1.「オッペンハイマー」の広告バナー
この映画について、「そもそも日本で上映されるの?」
このような議論をネットで見かけた。
そんな中、「オッペンハイマーを見て○○を当てよう」風な広告バナーを見かけた。
このバナーを見た当初は、商売のツールとしてこの映画を利用するのに違和感を覚えた。
しかし、これを一辺倒に避難することは難しいことかもしれないとも思うようになった。
この映画があってこそ飯を食える人、戦争について考える人など、一つの映画でも何通りもの関わり方がある。
みんなが同じ目線、同じ角度で、この映画に対峙する事はない。
だからこそ、一人一人がこの映画をキャンペーンバナーとして使われることに対して向き合わなければいけないと思う。
2.この映画での悪者は誰なの?
自分は、この映画を観て、諸悪の根源がアメリカだったのか、オッペンハイマーだったのかという風な結論には至らなかった。
恐れや、私欲によって少しずつ平和な世界から遠ざかっていた。
被害者は一人だけではない。
加害者も一人だけではない。
ナイフを作った人は、殺人犯として裁かれない。
そのナイフは、必要だと思われて作られた。
リンゴの皮を剥くために。
魔女狩りは、不毛な戦いを産むだけだ。
Aが言う。「お前が悪い」
隣のBが言う。「お前もだって」
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