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震災の遺構を見て

当時を知る人間は、その出来事の日付をしっかり覚えていることが多いとお思う。

自分は、阪神淡路大震災の時には、まだ生まれていない。
そのせいか、何月何日の出来事だったか即答することができない。
その代わりに、早朝の出来事という特徴的な内容は知っていたりする。

日付というのは、その当時を知る人たちの記憶の中に刻み込まれている物なんだと思う。
自分たちにとって、3/11がこれにあたる。

脳裏に深く刻まれた3/11。永久に忘れることはできない。当時はそう思っていた。

2024年3月10日 7時10分

あれから13年の月日が経ち、朝のテレビで震災の特集を見た時、ハッと気づいた。
「そうか、そんな時期か。」


2年前、自分は岩手に訪れた。

いつかはと思っていた、被災地の景色を見に行くためだ。

三陸に行くのはこれが初めて。震災前に何があったのかはよく知らない。
もしかすると、あの震災が無かったら、この場には訪れることはなかったのかもしれない。

これは陸前高田の町があったであろう場所。
見渡す限り何も無い。
かつて、どのような区画でどこにどんな建物があったのか、全く知る術が無い。かろうじて、遺構として残されている建物が数件あるのみだ。

2011年を境に町の構造を強制的にリセットされた。
住む場所を奪われたここの住民の方は、生活の基盤を根こそぎ取られたこの地に戻ることはあるのか?

目の前の堤防が、思い入れのある土地を守り通すことを阻む大きな壁のようだった。
この堤防が本当に守っているのは何?

場所を移り、被災した高校を見学。
ここは、当時のままの姿をそのまま残している。
津波によって漂着した車や電柱などが学校の中庭で堆積してあった。比喩など一切ない現実を押し付けるような生々しい内容だった。


自分は目の前の荒廃した学校と、当時の映像と重てみた。何度も。


当時、現場を歩きながらしきりに感じたことが2つあった。
「ここでとんでもない事が起こった」と
「当事者には永遠になれない」
という事。

被災地では、コンクリートの壁にラインが引かれ「この高さまで津波が来ました」という表示をよく見かけ、かつては街があったはずの空白の一体を目にした。

経験の範疇を越える出来事に対して、ある種のフィクションとして捉えたのかも知れない。当時見た物事に対して完全なる消化不良でいるのだ。

それは、2年経った今もそう。
経験した人にしか分からないものは、他の人が当人と同じように理解する事が難しい。
この事を身をもって痛感することとなった。

あの出来事に対して正面から向き合うこととは何か?
この経験は自分にとって一体なんだったのか?

この自問自答を続けて分かった。
これこそが、被災者でない者がてきる震災という出来事の受容だということに。

  

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