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先生は、親ではない

10代20代の頃は何かを学んだり、会社なりどこかの組織に属したときに、憧れるような存在が現れたとき、当時の僕はその人に理想の父親像を見ていた気がします。

ある人は理想の母親、あるいは理想の彼氏、彼女。その目の前の人はある部分においてのみ優れていて、欠点を有した普通の人間のはずなのに、少なくとも完璧な存在ではないはずなのに、そんな期待を一方的にしてしまう。そして、傷ついたり、傷つけたりしてしまう。

僕には、そんな経験があります。

ヨガや瞑想などの場合は精神性、人間としてどう高められているのかという要素があるので多少難しいところですが、目の前にいるその人はごくごく普通の人間です。等身大のその人を尊敬できたり、心地よい関係で関わり合えたらいいのに。

悩む人、傷つく人と話をするとそんな風に思ったりします。

周りの友達が玩具を買い与えられる中、ぼくだけ玩具を持っていない。そんな淋しさ、埋められていないパズルのピースを大人になって埋めようと、(お金持ちになったとして)時計や車を買い集めたりするのが、僕たちの哀しみです。目の前の先生も、1人の人間なのです。

自分自身が傷つくこと、怒りを覚えるべき正当な理由(ヘルシーアグレッション、健康的な怒り)が特にないのに、例えば、先生の女性関係がだらしなかったとします。それに怒りを覚えるのは正義感でしょうか、母を傷つけ浮気を繰り返す父親への恨みでしょうか。

そんなことを考えながら、狭いホテル(ホステル)の一室で久しぶりのnoteを書いています。相手を責めるのは簡単だけれど、オマエ(自分)は相手(社会)に一体何を求めているんだ、と。問いは、僕たちを籠の中から出してくれる可能性を秘めています。

凝り固まった思考になった時、僕たちは老いるのです。

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