フェルデンクライス氏の本を読み返す

フェルデンクライスというメソッドがある。
レッスンは、生徒として何度か参加したことがある。何人かの先生から学んだものの、良い先生がほとんどなのにはとても驚かされる。もし食べログなどを見ないで10軒、同じジャンルの飲食店に行ったとすれば、また来店してもいいと感じるのは何軒ぐらいだろう。そう考えると、フェルデンクライスというメソッドが相当素晴らしく、学ぶことが多いだろうと思わざるを得ない。

今日は、創始者であるモーシェ・フェルデンクライスの本を読みかえした。

違いが大きければ選択するのは簡単です。しかし、人間存在として重要な意味のある人間的な選択をしようと思ったら、感受性をもって微妙な違いを捉えられなくてはなりません。そのためには、自分の感受性を改善し、磨き上げねばなりません。であるならば、どうやって感受性を高めればいいのでしょう?(中略)努力を減らさなければ感受性を高めることはできないのです。
重大な違いを捉えるには、刺激を強めるのではなくて感受性を強めなくてはなりません。そして、刺激を弱めたとき、つまり、努力を減らしたとき、はじめて感受性は高まるのです。したがって、がんばって、苦痛に耐えて、緊張して学ぶことはなにものをももたらしません。

努力を減らすことは、とても難しい。より良くなりたいという感情は、人間として自然な尊いものだ。より良くなりたいと思うのに、努力をしてはいけない。それは逆説的、パラドックスのように感じられるかもしれない。この違いはボディワークとそれ以外のものをわける決定的な違いかもしれない。

感受性の高い人が間違った努力を続けることで、より強くなり、ただより頑なになり、本来持っていた繊細さを失っていく。そんなことはよくある。その人の気に入っている努力によって足のアーチ構造は損なわれ(土踏まずがつぶれ)、関節の可動域は失われていく。身体の変化は明確に、その人の人となりの変化の鏡となる。

動きについても、その内側、詳細はどうでもいいと細部を無視してしまう人もいる。本当は動きの中のプロセスこそ関心を持ち続けて欲しいけれど、結果(例えば、頭を持ち上げること)に関心を持ってしまう。そういう人は自分や他人との競争であったり、結果を求める気持ちに支配されてしまっている。その感情が、より感受性の豊かさを奪っていく。

ピラティスのムーブメントの中で、腹横筋をメインにした動きで頭を持ち上げられているか、より表層の腹直筋で持ち上げているのかは繊細な小さな違いかもしれない。自分で動きを探究していく場合、はじめは坐骨の動きやお腹の感覚の違いなどを頼りにしていく。感受性の豊かさがあれば、それは十分な手がかりになる。先生にガイドしてもらって上手にできた感覚が得られた人はラッキーで、その時の感覚を頼りにしていくといい。その時の経験がより自分をリラックスさせてくれるかもしれない。より努力をせずに、その動きをできるようになっていくと思う。そうすることで神経系のトレーニングとしてもピラティスは機能して、身体も内側から改革されていく。

ともかく、ピラティスは身体の中に入っていく身体の知性を使ったエンターテイメント、愉しむものだ。修業的な要素があるものは牢獄のようなもので、ろくなものがない。仮にできない(と感じる)エクササイズがあった場合も、決して落ち込んではいけないし、努力してもいけない。感受性を高め、愉しみながら、1回1回はじめておこなうようにその動きを探究するべきだ。

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