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「虐待」

先日、ビッグイシューの1つ前の号を購入しました。虐待についての特集でした。雑誌内でおこなわれていた座談会の中から、少し書き出してみます。

私の場合、過去の虐待の記憶がほとんど抜けています。当時から痛みを感じないよう、自分を上から見ているような感じで、事実と気持ちを分断させることをよくやっていました。それがクセになって記憶がすぐになくなるようになりました。最近では、気持ちが麻痺しそうになったらグッと一拍置いて「あ、これは今痛いと思っている」というように、自分自身の感情を自覚する訓練をしています。(ブローハン)

「虐待をされていた」と感じている人もいれば、「そんなことはされていないよ」という人もおられると思います。私が問題に感じるのは、「自覚的ではないけれど、虐待をされていた人」です。虐待に限らずなのですが、傷ついていることに自覚的でない人がセラピストとして一番気になります。自分で自分に鎮痛剤・麻酔をうち続けてしまって、傷ついていることに気づけなくなってしまっているのです。

つらいことや痛いことを忘れるのは、解離性障害に近いのかも・・・。症状のひとつに、自分が自分でないような離人感や、記憶を失う解離性健忘というのがあります。(羽馬)

過去の私には、少し似た傾向がありました。両親は私が中学1年生の頃に、離婚をしています。父親は厳しく暴力を振るうことも多く、離婚後も恨んではいました。恨みは持っていたものの、具体的に何をされたかの記憶が抜け落ちていたのです。具体的な虐待の記憶が抜け落ちて、漠然とひどい父だと思っている時期が長くありました。

それをボディワークを通じて、自然と思い出していくようになりました。セッションを受けた後は、大抵、リラックスしています。身体がホールドしていた記憶が解放されるような、時差と共に、ときにそういう感情の蘇りが起こることがありました。それは本当の意味で癒されるために、必要なプロセスでした。

それを整理して、瞑想や内観を通じて父を理解する、赦す作業をしていきました。父の死の直前、どうにかそれなりにその作業を終えて、父と私の物語は結実しました。ハッピーエンドかどうかわかりませんが、多少、救いのある話にはまとめることができました。

私も含め、虐待サバイバーに共通しているのは「自己肯定感の低さ」。自分を認めてもらうために、人間関係や仕事に依存してしまいがちです。だから小さな失敗でも、自殺したくなるほどの挫折を感じてしまう。褒めてもらうことは、虐待からの回復につながりますが、度を越すと、そこへの期待が強くなりすぎて、逆に挫折を感じやすくなってしまう。距離感がとても難しいです。(羽馬)

この抜き出した言葉に、何か感情がざわついた人もいるのではないでしょうか。もちろん、1つの可能性でしかないのですが、「こういうことを言っている人もいるんだな」ぐらいに心の片隅に置いておいてもよい気がします。子供の頃に、もしかすると何がしら、傷ついた結果そうなっているかもしれないからです。

多くの向上心のある人が自分を癒すプロセスを無視して、自分を鍛えたり、努力をして頑張ってしまいます。仕事に依存してしまうことを、躁的自己防衛と言ったりもします。こういう少し休める時期、余裕がある時期は自分自身に向き合う、自分の深いところに潜るにはよいタイミングです。

ちょっと、疲れますけどね。でも、価値はあると思います。


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