見出し画像

圧倒的強者に対してとるべき4つの手段 (薩摩藩から学ぶシリーズ)

こんにちわ。ぴくむんです。

私は、
小さい頃から実生活で役に立たない学問ばかり教えられる。
「現代社会でダイレクトに役に立つ学問がない」
研究は、勉強の醍醐味であるのに大多数の人がやっていない。
「大多数の人は研究をする機会がない」

ことに対して疑問を覚えていました。そこで、

国なんてあてにせずに
自分の力で「実生活に直接役に立つ学問の確立」することや、
大学に行かなくても「誰でも研究できる環境の整備」する活動を始めようと思いました。

この記事では、「実生活に役に立つ学問の確立」の一歩として、薩摩藩の歴史から自分フィルターバリバリにかけて、薩摩藩から学ぶシリーズとして記していきたいと思います。今回の記事は、薩英戦争の薩摩対応に関して大事な教えを抽出してみました。
中学生の時に鹿児島県ってイギリスと戦争したとかヤバすぎだろっと思っていましたが、いざ紐解いていくと色々腑に落ちました。

それでは、よろしくお願いします。

本文

鹿児島旅行に行った時に、明治維新記念館を訪れ「維新を歩く(1)」という本を手にした。この本では、「なぜ薩摩が明治維新で中心的な役割を果たせたのか」について論じていた。

この本を参考にしながら、日本人の薩英戦争に対する認識はおおよそ以下の通りだと思う。

大名行列の際に、イギリス人がよくわかってなくて馬で乗り入れたのに対して、警備を目的として斬りかかり1人が死亡、2人が重傷を追う事件が発生した。それに対してイギリスは、賠償金と切り掛かった人物の引き渡しを要求した。しかし、それに薩摩藩が応じなかった。イギリスは、無理やりにでも要求を通すために、薩摩藩の船三隻を奪い取ったところ、薩摩藩は激怒し砲撃攻撃を始めた。そこで2日間砲撃の打ち合いとなり、イギリスの被害が大きくなり横浜へ退いていった。その後、両者の歩み寄りにより和平交渉が行われた。

というのが一般的な認識だと思う。

しかし、少し疑問に思うことがある。
なぜイギリスは和平交渉に応じたのかというところである。

単純に考えれば、当時イケイケだったイギリスが侵略対象の日本から攻撃されたのであれば、待っていましたと言わんばかりに総攻撃をして、植民地化するのか欧米列強の常套手段である。

この問いに対して、上記の本に有力な答えを書いていた。

薩摩もイギリスが再び来襲すれば敗北は明らかでした。しかし、当時イギリス本国では、イギリス艦隊が鹿児島を砲撃したと報道が伝わるや、責任者のニール代理公使やクーパー提督に対し、罪もない鹿児島市民を巻き添えにしたとの批判が巻き起こり、公使や提督らに対し抗議運動まで起きたと言います。そのため、イギリスのビクトリア女王は、国会開会の挨拶のなかで、鹿児島市民に対し謝罪の言葉を述べました。こうしたイギリスの国内事情もあったために、イギリス艦隊も総攻撃はできずに、和睦せざるをえないのでした。

維新を歩く (1)

あのイギリスがそこまで民度高いとは思えなかったので、
自分なりにこの時代のイギリスについて調べてみると

1860年代には、既に様々な女性参政権運動が各地で行われ、集会の開催やチラシの配布、国会への嘆願書提出が行われていた。

http://www.news-digest.co.uk/news/features/16117-womens-suffrage-movement.html

という記事に行き着いた。
つまりイギリス国民は民度が良かったというより、国民が政府に対して物申す系の風潮があったのだと思う。つまり、イギリス国民としては政府を叩きたい口実が欲しかったのかも知れない。

これを補強する事実として、

イギリスでは、「薩英戦争」とは言わずに、単に「鹿児島砲撃」と呼んでいます

維新を歩く (1)

とある。つまり、イギリスのマスコミは戦争という言葉を使わずに相手の国を攻撃した事実だけを切り取るような言い方になっているので、おそらく国民が政府を叩きやすいように、こうしたのだと思う(違っていたらすいません)。

別視点のアメリカのニューヨークタイムズ新聞によると

「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ。彼らは勇敢であり西欧式の武器や戦術にも予想外に長けていて、降伏させるのは難しい。英国は増援を送ったにもかかわらず、日本軍の勇猛さをくじくことはできなかった」とし、さらに、「西欧が戦争によって日本に汚い条約に従わせようとするのはうまくいかないだろう」とも評している。

https://bookwalker.jp/dee5df0631-3236-4c48-8250-1c00b6abbd40/

というように、欧州だけではなくアメリカも薩摩肩を持っているのがよくわかる。そして、汚い条約というのは自覚があったらしい。なんというブーメラン。

その後、薩摩はその流れを利用して、うまく和平交渉に成功している。

賠償金を支払う代わりに、薩摩藩の留学生を受け入れることや、軍艦購入の斡旋・操船技術の伝授の約束を取り付けました。

維新を歩く (1)

イギリスは、3枚舌外交などの約束を守らないことで定評のある国だが小さいことの取り決めぐらいは守ってくれたみたいである。

つまり、
薩摩が滅びなかった理由は
・イギリス国民の世論の主流が政府批判という流れがあった。
・薩摩が2日間砲撃合戦を耐え、戦果を挙げた
・和平の際の薩摩対応が非常によかった
であると考えられる。

我々は、この薩摩の薩英戦争から学ぶべき教訓が4つほどある。
1.ある程度の筋を通しておくこと
2.ちゃんと反撃するときは反撃すること
3.相手の世論を味方にすること
4.交渉の際に相手の懐に入りこむことを約束すること

ある程度の筋を通しておくこと

この件に関して、薩摩藩はある程度の筋は通していると思う。

生麦事件の際にも、大名行列というのは大名が長距離移動するので無防備になることがおおい。すなわち、護衛が入るのは当たり前であり、イギリス人が馬で乗り付けて列を見出したのであれば暗殺と思われても仕方がない。
そこで正当防衛を主張してもある程度の筋は通っているように見える。
その後、イギリスが先に薩摩の船上員を殺害し船を奪い取っていたので、それに対して砲撃するのもある程度筋は通っている。

もちろんどの事実を切り取って報道するかによって立場は変わってくると思うが、私が調べた限りだと、薩摩藩がやったことは筋が通ってないとは思わない。

筋を通しておく事によって生まれる副産物は、
・世論が味方してくれる
・議論の際に堂々とできるということである。
この副産物のおかげで、薩摩は和平交渉の際にも大きくでられたのだと私は思う。

ちゃんと反撃するときは反撃すること

もしイギリスの薩摩が言いなりになっていれば、欧米諸国は調子に乗りもっと日本の植民地化について大胆になっていたのだと思う。
相手が筋を通さなかった場合には、ちゃんと反撃する事しなければならないだろう。
これは、私は人間であるということを誇示する行為に当たるののだと思う。

そうしなかった場合どうなっていたか、それはアボリジニが教えてくれると思う。
ちょっとセンシティブな話題になるので、軽くしか触れないが歴史の事実としてアボリジニの虐殺というものがある。
これはオーストラリアでおこった出来事であるが、この事件は、このときの白人は原住民のことを人間だと思っていなかったから起こった出来事だと思っている。

住んでいる場所が違えば、そこには差が生まれる。言語だったり、能力だったり、技術力だったり様々な差がある。
人間というのは愚かなもので、差があると相手を見下し始める。
だんだんと侮り始め、軽視していき、最後は人間扱いされなくなる。
行き着く先は虐殺されるという事件に発展するのは事実だろう。

最強伝説黒沢 11巻より

福本作品の中に黒沢という漫画の中で、

主人公黒沢は、幼き日の自分を思い出す場面がある。
幼い自分は公園で遊びでアリを大量に殺していた。
そして、一匹のアリが幼い黒沢の手を噛んだ事により、幼い黒沢は痛みに泣き出し、アリ殺しを辞めて公園を去るシーンがある。

まさに、この黒沢の手を噛んだアリこそが薩摩藩だったと言っていいのではないか。

理不尽が襲ってきたときにちゃんと戦う。
ちゃんと命をかけて己の「鞭飴力(前回参照)」を誇示する。それこそが立派に生きることなのではないかと私は思う。

相手の世論を味方にすること

今回の私が一番勉強になったところである。
まさかイギリスの世論が薩摩の味方につけることにより命拾いしたとは知らなかった。
我々が感謝しなければならないのは、
・イギリスの民度
・この時の政府に対する風向き
この2つがなければ日本の歴史は大きく変わっていたのかも知れない。

我々が何かするときに自分のことばかりしか考えない。
しかし、よくよく考えてみればわかるが、自分が何かしたときに反応するのは世間である。つまり世間がどう反応するかによって、自分の身の振る舞いが決定すると言っていいだろう。
客があっての商売であることを忘れてはならない。もちろん売り手あっての商売も忘れてはならないが。

今薩英戦争の場合、世論工作されてないと思うが、世論工作できた際にはこの力は非常に有効だということは忘れてはならない。

そして、一部の頭のいい人だけがこのことを理解している。
現代社会において、ステマに始まり、口コミ工作、レビュー工作など様々な工作がある。そして別観点では、恋愛でいうとモテるからモテるという考え方もあり、商売でいうと行列があるから並ぶという心理もある。

身近な例で言うと、口コミを書いてくれたら割引など様々なことが行われいるがこれも一種の世論工作だと考えてもいいだろう。

ステマや口コミに莫大なお金を出す人もいる。このような人たちは、世論の力というのを正しく認識しているから莫大のお金を出すのだろう。このような世論工作を舐めてはいけないと言うか、超重要な考え方であるので心に留めておく必要がある。
昔の戦においても噂を流すというのは上等手段であったことから、この世論工作の重要性というのは当然なのかも知れない。友人や会社の権力争いにおいても噂を流すのはよく聞く話である。

あまり口を大きくして言えないが、行き詰まった時や絶対に失敗が許されないときはこの世論工作というのは絶対に必要になってくると思う。


交渉の際に相手の懐に入りこむことを約束すること

現代社会において、個人でできることはもはや限界がある。
いつかちゃんと書こうと思うが、現代社会においてお金を稼ぐ方法は3つある。

1000円稼ごうと思うなら、

1. 自分で時給1000円のところで1時間働く。
2. 2000円の仕事を受けて、人を1000円で雇って働いてもらう
3. 何かにお金を預けて増やしてもらう(投資)
のどれかである。

世の中の大多数の人は1のことしか考えてないが、
実業家の人たちは年から年中2か3のことしか頭にない。

そして世の中で起こっているビジネスというのは、

1段階目:世の中で上手くいっているものを買って売ってみる。
2段階目:模倣するために技術や素子を購入して、作って売る。
3段階目:全て自前で用意して、0から製作し、自分の店で売る。
の3段階で行われていることが多い。

そして思い出して欲しいのが、

賠償金を支払う代わりに、薩摩藩の留学生を受け入れることや、軍艦購入の斡旋・操船技術の伝授の約束を取り付けました

維新を歩く (1)

これは上記のビジネスの手順には欠かせない、モノの購入、技術の購入、人材育成の要素が詰まっている。

薩摩藩は賠償金という名目で潜り込んだが、現代社会において潜り込む名目なんていくらでもあるだろう。コラボレーションとかインターンシップとか異分野交流会とか様々な形を変えて潜り込むチャンスがある。

まずは、その中で相手の持っているノウハウや技術をまとめて自分のものにする。そして、それを自分のところに持ち帰り、形や見せ方を変えて販売したりする。そうする事により上手くいく可能性が高くなる。

もっと一般的にいうと、まずは人の真似から入ることである。

個人的なアドバイスになるが、なるべくトップレベルの人を真似るのはおすすめしない。比較的うまくいっているレベルが低い人を真似るところから始めるべきである。
そして、だいたい模倣できたら、また次のレベルの人を真似てみるのがいいだろう。するとだんだん自分の中でノウハウが溜まっていき、きっとその頃にはだいぶいい感じになっているはずである。

以上4つが、薩英戦争から学べる大事なことである。

まとめ

もちろん日々の準備があったからこそ薩摩はイギリスの戦艦と2日にわたって打ち合いができた。この4つの手段というのは、綿密な準備があってこそ威力を発揮する。

そして、その準備は

島津斉彬がアヘン戦争に始まり植民地化政策を進める西欧列強のアジア進出に強い危機感を抱いたからこそ進んだのである。
つまりは、意識の差である。

何か物事が起きたときに、様々な思考を巡らせ何が起こっているかを把握して、そこから考えられる様々なシナリオを検討する。そして、そのシナリオが起こってもいいように準備をしておく。しかし、これは危機感という意識があって初めて成立する。

全てはこの島津斉彬の危機感こそが日本を救ったと言ってもいいのかも知れない。

あとがき

いかかがだったでしょうか。

薩摩藩から学ぶシリーズとして重要な教えを抽出してみました。
前回は、万博をキーワードに生き残るために必要だった事について言及してみました。

歴史を調べていると日本という国は、ギリギリのところで植民地支配を免れたような気がします。日本が近代化できた理由としても、島津斉彬を初めとして様々な人たちが寺子屋をはじめとして、高い教育レベルであったと言われております。

時代時代によってレベルを測るための物差しが変わってきますが、間違いなくどの時代もホットだった分野のものを大量に持ち、扱えることが権威に直結しているのかなっと思います。

我々の時代は、情報が桁違いに溢れてくると思います。つまり、ビックデータを持ち、解析できるグループが覇権を取るでしょう。
Facebookとgoogleあたりが目立つようになり、ビックデータ解析できる人間が求められるようになるのは、もう誰も疑わないでしょう。

このようなグループが持ち、経済という刃で弱者グループをいじめた時にどうすればいいのか。
その答えは、薩摩藩の対応を真似をすれば十分だと思います。

もし島津斉彬が生きていたら、「GAFA」と戦える企業を作るために、鹿児島県独自のIT教育を始め、独自のITベンチャーを立ち上げ、GAFAと互換性のある独自のクラウドシステムやアプリを作り、少なくとも戦う姿勢は見せなくてはいけないと言いそうですね。

現実は非常に厳しいと深く理解しますが、心意気だけはGAFAと戦うつもりでいるのが大事だと思います。

あなたは、薩英戦争から何が学べると思いますか?
スキ、コメントお待ちしております!

もし自分に興味があれば自己紹介noteがあるので読んでくれると嬉しいです。

自分がおすすめ記事は

になります!もし興味があれば読んでみてください。

新たな試みとして、コラボ相手を探しております。

Twitter : https://twitter.com/pikum55

Twitter : https://twitter.com/pikum55

もやっているのでフォローしてくれた嬉しいです。

お相手は、ぴくむんでした。それでは、また!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?