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世に棲む日々の読書感想文。

世に棲む日々全4巻を読み終わった。
読み終わった瞬間に「松陰の弟子か、、、」と呟いた。

令和を生きる我々にとって、明治維新は最後の革命である。

これから先、革命が起きるかわからないが、
きっと革命が起きるとすれば、
初めは思想から始まる。
これがこの作品を読んで得た最大のメッセージである。

「我々は本来こうあるべきである」という理想が、人間、集団、社会、世界、全てを突き動かすことになる。

例えば、ナチスのヒトラーは国民に向かって、
「我らは誇り高きゲルマン民族であり、この現状はおかしい」
という思想を国民に振りまいた。
国民はその思想に溺れ、
ナチスという怪物を産み出し暴れた
という事実がある。

しかし、これら全ての段階で、単一の理想、行動、キャラクターで実行するのは難しく

0を1にするには、それに適した理想、行動、キャラクターがあり、
1を10にするには、それに適した理想、行動キャラクターがあり、
10を100にするには、それに適した理想、行動キャラクターがある。

もし、これを原則守らない場合は、必ず歪みが生じて、後で大きなつけを払うことになる。例えば、薩摩藩でいうところの西南戦争、ナチスのいうところでの第二次世界大戦の大敗。

長州藩の凄かったところは、この3段階の人物がうまく現れうまく舞台から去ることにより、うまく現実と迎合していき、後の大きいツケは免れた。

0、1は吉田松陰(思想家)
1、10は久坂玄瑞、高杉晋作(活動家)
10、100は、木戸孝允、伊藤博文、井上馨(政治家)
というふうに。

この0から100に到達する際には、0で作られた思想は失われることにより、現実に適合していく。
先ほどの例は、西郷隆盛、ヒトラー共に、初期の現実的でない部分が失われずに、歪みとして現れたのだと推測される。

吉田松陰は、尊王攘夷を至誠の心で実行するという思想であったが、明治政府設立前に攘夷が消え、設立後は至誠が失われていき、現代においては尊王すらも失われてしまった。
これが松陰の思想が最終的に現実に適合した結果であり、
まるで、社会というブラックコーヒーに
思想というミルクを注ぎ、
白い液体が黒の液体に溶けていき、
新たな色と味を持ったコーヒーなった
そんな感じである。

そして、混ざり終わったその新たな下地に、また新たな思想の付け入る隙が生まれる。きっとそれが「安保闘争」なのだろう。

安保闘争における元の思想である社会主義の思想は、フランス革命のシャコバンクラブによって生まれた。
その思想が海を超え、日本にやってきた。
かつて、吉田松陰の弟子たちが暴れまくってテロ活動を行ったように、当時の若者たちはその思想に溺れ、デモ、テロ活動を起こし始めた。

幸か不幸かはわからないが、安保闘争が敗北を喫したのは、優秀な指導者もしくは優秀な活動家が現れなかったのだろう。

吉田松陰の凄まじさは、優秀な思想家、活動家、啓蒙家、教育家であったこと、
久坂玄瑞、高杉晋作という優秀な活動家を弟子にしたこと、
人間における最大の啓蒙活動である己の死を持って、弟子を啓蒙したことである。

だからこそ、「安保闘争」で成し遂げられなかった革命を、長州藩は成し遂げたのだと私は思う。

上述の通り、全ての原点は思想から始り、
何かを成し遂げるためには、優秀な活動家と言うのが肝である。

私は研究の世界にいたことがあるのであるが、科学の世界も割とそうであると思う。まずは、根本に思想があり、それを理論や実験をこねくり回して、その思想に合うことを望む。時には、それが予想外の結果が出てきて、思想が矯正され、その思想に合うように、日々研究を行っているような気がする。

物理の世界では、「この世の全ての現象は、簡潔な形である一本の式で表されるべきである」という思想がある。
まさにこれがいい例だろう。

話を長州に戻すが、このような繋がりが明確に見えるからこそ、
今作に始まり、高杉晋作は必ず吉田松陰とセットで描かれる。

高杉晋作は、きっと吉田松陰にさえ出会わなければ、普通の人生を歩んでいただろう。さすれば、昔の安保闘争のように松陰の思想の根幹であった尊王攘夷は失敗に終わり、徳川藩、薩摩藩、会津藩で中途半端な徳川が根強く残る政府を作っていたと考えられる。

しかし現実は、高杉晋作は吉田松陰と出会ってしまった。
様々な運命的な出会いと助けがあった。
そして、我々の知る現在が出来上がった。

ここからは
高杉晋作について語り、現代について言及し、この感想文の終わりとする。

高杉晋作は、面白至上主義であった。

しかし、まともに生きると面白くないことに彼は苦悩していた。現代人の我々は、その感覚を理解することはでき、賛同者はそれなりにいると思うが、

江戸時代の人間からすれば、農民の子は農民であり、武士の子は武士であり、その身分で慎ましく生きることが美徳とされており、面白いという考え方はどちらかといえば美徳から外れる。
彼は、理解されにくい悩みを抱えたと考えられる。

しかし、そんな世の中であっても、高杉晋作は人生に面白さを求めていた。
そして、彼の行き着いた先は「世間のタブーを犯す」ことによる面白さを追求することだったと考えられる。

彼の行動は、大体これで説明できる。
彼はやってはいけないことをやりまっくった。

海外の大使館を放火したり、
大罪人である松陰の骨を盗んだり、
将軍しか渡ってはいけない橋を渡り、
関所を強行突破したり、
将軍に対して「よ、征夷大将軍」と言ったり(事実かは不明)

通常であれば死刑であるとこをやりまくった。

この行動は、松陰の思想遂行のために必要であったかもしれないが、
それ以上に
彼は面白至上主義の熱狂者であり、タブーを犯すという快楽から抜け出せなくなった異常者であるだろう。

辞世の句にも
「面白き事もなき世を面白く」
とある。

下の句は、
「すみなすものは心なりけり」
というように看病した人がつけた。

これだと、「面白くない人生を面白く生きるのは、心次第である。」という意味になる。
これでは、高杉らしさが薄れてしまう。
もし、私が勝手につけることが許されるのであれば、

面白き
事もなき世を
面白く
我は生きたり
己のままに

の方が高杉らしいと私は思う。
(もちろん私の歌のセンスはゼロである。)

それでは、話を現代に戻し、
近年の我々は、ホワイト社会という「いい子ちゃん化」する傾向にある。
それは人間として素晴らしいことなのだが、だんだんとツマラナイ世の中にもなっているような印象も受ける。

いつの日か、
みんないい子になったホワイト社会のより戻しは必ずきて、大衆は何か思想を求めるようになるだろう。

その時に、どんな思想があるかはわからない。
その時に、そんな活動家がいるかわからない。
しかしながら、もし幕末のように、運命のいたずらがあるのであれば、

「東京の権力の一極集中」社会から「権力分散」社会に移る革命
つまり、戦国の世に戻る可能性は十分に考えられる。

その時に、我々が忘れていたような、血なまぐさい戦いが起こるかもしれない。
そうなったら、本書はバイブルになるような存在になるだろう。

太平洋戦争が終わり、今年で泰平の世(平和な世界)で76年目になる。
江戸時代の泰平の世は250年近く続いた。

あと何年持つかは誰にもわからない。
火種なら、既に沖縄と北海道にある。

我々の責務は、泰平の世が少しでも長くなるように努力すること。
それが、平和のために死んでいった人たちの弔いだと私は思う。

しかし、今の世の人々は
今日が安全だから明日も安全であることを疑わず、
安全より安心を追求し、
思考停止し、現状維持に甘え、変える事を放棄し、
新しい思想、新しい活動を叩いて、
結果的にそれは
泰平の世を維持する努力を怠っているように私には見える。

吉田松陰とその弟子が、そんな日本を見たら激怒するのではないか。
そんな事ばかり考えてしまう。

松陰先生、もし現代に生まれ変わったらあなたは一体何を思うのですか?
そんな意味もない問いかけを虚に向かってしてみる。

そんな感想を抱いた本であった。

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