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【アニメ『殺し愛』】交わらないエスプレッソとミルクが交わるとき

『殺し愛』がすごく良かったので、感想を書きますが、まずタイトルを見てこう思いませんでした?

「あ~はいはい、リャンハとシャトーをコーヒーとミルクに例えて距離感が近づく様子をカフェラテで比喩表現しているのね・・・」と。

違います!!!!!!!!!!!!!!!!!

厳密にはそれだけではなく、この作品にはもう一つのエスプレッソ=ミルク軸があり、その軸こそがこのアニメを面白くしているポイントなのです!
この軸について本noteでは語っていきます。

そしてその軸はキャラ同士の関係など具体的なレベルではなく、もっとアニメの概念というか根源のようなところの話です。

このアニメ独特の雰囲気を醸し出している根源でもあります。
それはどこから来ているのか・・・

「殺」と「愛」の交わらないはずの世界

それは「殺と愛」「サスペンスとラブコメ」「シリアスと笑い」というような2つの共存しない概念が共存している点です。

エスプレッソがカッコ内の前項のそれぞれ、ミルクが後項のそれぞれとします。

ここで注意したいのは愛ゆえに殺すとか、逆に殺し合い中に愛になるというような展開はアニメにかかわらず普通にあります(特に昼ドラ)。
しかしそれらはあくまで殺と愛が延長線上に存在しあっています。

『殺し合』ではこれが違うと思うのです。
初めから殺と愛」「サスペンスとラブコメ」「シリアスと笑い」というような2つの共存しない概念が2つが同時にポッと表れて、同じ作品という瓶の中に共存していて、でも延長線上にはないから消して交わっていない。
エスプレッソとミルクが交わってカフェラテになっておらず、でも同じ瓶の中に分離したまま詰まっている、ということです。

ただしコーヒーとミルクじゃない

もう1つ重要なのは、決して「コーヒー」はないということ。
「エスプレッソ」だということです。

「殺」と「愛」、「サスペンスとラブコメ」、「シリアス」と「笑い」の間の中途半端なジャンルの作品ではなく、どちらも濃いのです。
サスペンスっぽいようなラブコメっぽいような真ん中あたりの作品は作ろうと思えば作れそうです。

でもこの作品は、「どっちもしっかり共存」なのです。
そして延長線上を行ったり来たりしているのでもなく、
「常に両者濃いまま同じ瓶の中に共存」なのです。


苦い側にも甘い側にも濃い限界近くまで行ってる、それでなお交わらない。この独特の感覚がこの作品を通して感じられます。

そして11話後半から、ゆっくりとこのエスプレッソとミルクが溶け合い始め、最終話に向かっていく。
ゆっくりと渦巻きを作りながらカフェラテになっていく様子は本当に美しかった。

それを彩る12話の庭園の薔薇は完璧。
この「もう一つのエスプレッソ=ミルク軸」こそ、私が感じたこの作品の魅力でした。

類似の作品の検討

果たしてこれは『殺し愛』独特の感覚なのだろうか、最後に類似の作品を検討したいと思います。

『ヴァイオレット・エヴァ―ガーデン』はどうだろうか。

確かにヴァイオレットと少佐は戦いの最中にいてその中で(ヴァイオレットは理解していないものの)愛の描写がある。殺と愛は延長線上にはないようにも見えます。

だが決定的な違いはヴァイオレットと少佐が敵対の関係にないところにあります。「殺」が「環境」でその中で「愛」という具体が描写されるため、同じ瓶の中に共存していない(同じレベルにない)のです。

他の闘いの中で愛を描写する系作品も同様なことが言えるでしょう(『終末のイゼッタ』等)。

ロミジュリ系はどうだろうか。

最近だと『キミと僕の最後の戦場、あるいは世界が始まる聖戦』や『世界最高の暗殺者、異世界貴族に転生する』などがあります。

ロミジュリ系が『殺し愛』と決定的に違うのは、
対立軸の2人の立場が違いすぎるという点です。
兵と王女とか暗殺者と領主の娘とか、これでは共存は難しい。

いずれにしても、「2つの正反対の項目がどちらも濃いまま交わらずに同時に同じ瓶の中に常に同時に共存」はしていません。

まとめ

この作品にしかないオリジナルの面白さ、独特の雰囲気、それは
初めから殺と愛」「サスペンスとラブコメ」「シリアスと笑い」というような2つの対をなす概念が2つ同時にポッと表れて、同じ作品という瓶の中に共存していて、でも延長線上にはないから消して交わっていない。
②2つの対立事項がどちら側にも濃く描かれているのに中途半端じゃなく存在しあっている。

この点が私がこの作品を好きになった理由の一つでした。
面白かったので是非皆さんもご覧ください!
シャトーかわいい!

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