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ムルソーは本当に『異邦人』なのか

アルベール=カミュの『異邦人』。「不条理」を追求した小説として広く知られる本作だが、一読してぼくは主人公のムルソーに対しあまり違和感を覚えなかった。彼は単にドライな性格を持っているだけな気がしたのだ。

誰でも彼のような心境に陥る可能性があるし、ひいては彼が犯したように殺人の罪を犯すこともあり得るのではないか?

単にムルソーを反社会的人格の持ち主だとしてしまうには、サイコパス特有の性格に当てはまらないところが多いのだ。サイコパスの特徴の一つは「表面上口達者」であることだが彼は無口なほうである。それに「平然と嘘をつく」という性格にも当てはまらない。むしろ馬鹿正直なくらい誠実だ。その証拠に彼は恋人のマリイに「恐らくは君を愛していないだろう」と言ってしまう。もっとも、マリイの方は彼のそんなところも気に入っているようではあるけれど。

作中には「暑さ」に関する丁寧な描写が繰り返し登場する。読んでいるだけで意識が朦朧とするような、濃密な空気を感じさせる描写だ。その描写は、ムルソーが殺人を犯した理由について述べたあまりにも有名な台詞である「太陽が眩しかったから」という一見理不尽な理由にも、圧倒的な説得力を生じさせるほどだ。ただ、ぼくがこの台詞に感じたのは、「自分もムルソーと同じようなことをしでかしてしまうかもしれない」という幾ばくかの恐怖だった。暑さで意識が朦朧としていれば、それこそ太陽が眩しければ、ぼくだって撃鉄を起こし引き金を引いてしまうかもしれない。

ムルソーは、強く自分の意見を主張することをしない。一度言ってだめなら、あとは沈黙してしまう。皆が使うことで濡れそぼった手洗い場のタオルが不快なので、1日に2度取り換えようという提案を上司にした時も、却下されればすぐに諦めた。それは、自身の裁判の時でも同じだった。彼は沈黙を続ける。言っても無駄だからだ。言っても無駄だから沈黙するという姿勢に、ぼくは強い共感を覚えた。ぼくもそうだからだ。たいていのことは受け入れることができてしまう。自分が何か行動を起こしたら未来が変わるのだとしても、その代償として払う面倒事を考えると途端に億劫になる。

だからこそ、ムルソーが最後の最後に見せた感情の発露にはいたく心を突き動かされた。彼は別に、我々と全く異なる理解しがたいような常識や感受性を持っているわけではない。表面上ドライなだけで、ごくごく普通のひとの心を持った人間なのだ。どこか知らない場所から来た異邦人ではありえない。

裁判は、理解できない人間を排除しようという思惑が重なるとより激しさを増すが、非難の声を上げる純真無垢な一般大衆の彼らは、ある大事なことを忘れている。人間は誰しもが不条理な存在であり、誰もが罪を犯す可能性があるということを。人間は一筋縄ではいかない存在である。普通だと考えられない行動を取ることもある。何故なら、人間には感情と言う代物があるからだ。どんなに普段は隠されていようとも、人間には感情というものがあるからだ。

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