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『職業としての学問』を読んだ

2021/11/30、GRAND TIME CAFEにて読了。紅茶はたぶんお店独自のブレンドなのだろう、あまり飲んだことのない味がした。とか言って普通のティーバッグだったら笑っちゃうけど。

マックス=ウェーバー(ヴェーバー)による講演録。ウェーバーと聞くと物々しい印象を受けるが、本書はとても薄いのですぐに読める。学問の意義や我々の職分等について、ウェーバーの意見が展開される。

彼がポスドクについて言及しているところを読み、なんとも言えぬ気分になったので抜き出してみる。「私講師や研究所助手が他日正教授や研究所幹部となるためには、ただ僥倖(「僥倖」に傍点)を待つほかはないということである」。ウェーバーでさえこう断言しているとは、時代や場所に関係なく、学問を志す者の置かれた環境は厳しいようだ。

「作業と情熱とが-そしてとくにこの両者が合体(「合体」に傍点)することによって-思いつきをさそいだすのである」「人がそれ(「思いつき」を指す)を期待していないようなときに、突如としてあらわれる」という記述については、ウェーバーもこれを言うんだなあと感心した。というのは、ぼくの尊敬するクリエイターが同じことを言っている場面を度々耳にしたことがあるからだ。結局ウェーバーのような人々は、思いつきを期待していないようなときでも、意識の奥底で仕事のことを考え続けているということなのだろう。

一般に学問的研究は、「出てくる結果がなにか『知るに値する』という意味で重要な事柄である」という前提に立っている。考えてみれば当たり前なのだが、これはなかなか衝撃的だった。ウェーバーに言われなければ、ぼくはこれが前提だということにすら気づけなかったであろう。学問の結果が知るに値しないかもしれないという可能性を、あまり考えたことがなかったのだ。

自分の職分をわきまえ、それを全うすることで初めて個性的な自我を獲得できる。「ザッへ(仕事)に帰れ」、それがウェーバーの主張だ。自分の役割を見つめ直してみたくなる啓蒙の書である。


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