第1話 『あの人』の夢見る人生

 『あなたは、私の言うことに従っていればいいのよ』
ふと、この言葉が頭の中をよぎった。
『あの人の言葉』を心の底から従いたくないと思った瞬間だった。
 
 就職活動も佳境を迎えた大学4年生の6月21日の金曜日。6月1日から始まる、【ホワイト企業】の面接をことごとく落とされて、奈落の底に落とされていた。『あの人』がよく口から出す【大手一流起業】に全て落第したと言ったら、『あの人』はどんな顔を浮かべるだろうか。

私が生きてきた、『あの人』への忖度人生に終止符を打つ出来事だった。

なぜなら、『あの人』の言うことが全て正しいと思って、22年間そのレールを走ってきたから、失敗なんてするはずがないと心のどこかで思っていた。

3月1日から始まる書類審査は全て通過した。20社受けて20通過。まずまずだった。というか、通過して当たり前だと『あの人』には言われていた。

周りの人曰く、「顔が綺麗で、性格も優しいから書類通過したんだよ」、と揶揄された。

私は生まれてこの方、1度もモテたことがないから、正直よく分からなかった。自分の顔が綺麗であることなどさらさら思っていなかった。周りと比べることもなかった。なぜ、嫉妬されるのか分からなかった。

22年間1度もメイクとかしたことないし、男の人から告白されたり、もてはやされることもなかった。なぜなら、男の人がいる空間に触れることがほとんどなかったから。

ずっと、女性がいる空間の中で生きてきたから、よく見られたいとも思わなかったし、綺麗にしようとかオシャレしようとか思わなかった。デートすらしたこともなかった。もちろん、キスやセックスさえも。処女どころかその上だった。

男の子には、興味さえ持たなかった。あの時を除いては、、
あの時、『私が好きになった男性』は、最初で最後だった。あの時以来、恋することを忘れていた。もっと言うと、恋する心を失っていた。私は、永遠に恋ができないと思っていた。

家に帰ると、リビングにはいつもと違うメニューが並んでいた。メニューの内容は、寿司、ピザ、唐揚げ、ナゲット、赤飯。

これらが意味するのは、私が【ホワイト企業】から内定をいただくことを、『あの人』は、まるで既に知っていることの表れだった。

私の家では、あの人の期待に沿う度に、ご馳走を用意してくれるという、一般的な世の中で溢れている制度が一つだけ適用されていた。基本的には、それ以外の制度は、一般的な世の中とはかけ離れていた。

「亜美、おめでとう。これで、あなたの人生は一生安泰ね。さてこれから、内定をいただいた会社から行くべき会社を選ばなくちゃね。」

私は、無言だった。22年間ずっと母親の言うことに従ってきたから、文句を一度も言ったことがないし、反抗さえしたことがない。自分の意見を言うこともなかったし、母親の敷いたレールに乗っかるだけの人生だった。

母親の言う『素直で優しい子』へと勝手に育っていた。

私は、今日、この時に初めて、『この人』に従わないと決心した。

「ねぇ、私、全部落ちたよ。すごいでしょ。20社全て落ちたよ。」続けて言った。「これまでの私の22年間はなんだったの!。あらゆることを制限して、まるで奴隷だよ。私は、あなたの求める人生を歩むために生まれてきたの?。ふざけるな!。あなたの せいで、何の意見も言えなくて、何の興味もない22歳になったじゃない!。

22年間で溜まった文句にしては、かなり少なかった。だけど、スッキリした。やっぱり、私は優しい人なんだと改めて実感した。

母親の姿は、まるで憔悴しきった85歳のおばあちゃんだった。本当は、50歳なのに。その姿を見てられなくなって、自分の部屋にこもった。

布団の中に潜って、何もする気が起きなかった。これからどうしようとすら思わなかった。なぜなら、就活が上手くいくと思っていたから。人生で初めての挫折だった。

誰かに連絡を取りたくても、周りの人は携帯を持っているのに自分だけ持ってないから、誰にも相談できなかった。今思えば、学校以外で連絡をとる人や遊ぶ人は、母親以外には居なかった。

私は、爆発したように、布団のシーツを何度も殴った。突発的な怒りは、数分で治った。ベットを抜け出して、自分の机に向かった。

22年間で初めてだった。自分から進んで机に向かったことが。ノートを1冊取り出した。まるでそのノートは、この機会を伺っていたように、私の目に一番近いところに置かれていた。

そのノートに、これからの自分、つまり理想の自分の姿を書き写していった。溢れんばかりの想いが頭の中にあったのか、10個や20個では収まらなかった。

これからは、『自分の人生』を歩んでいこうと心に誓った。

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