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コロナショックとブエノスアイレスの冬へのイメージ

今日は晴れだった。春分の日。やっと春がくる。

マヤ歴とインド歴では今日が地球最後の日。

Twitterではワニが死んだ。


新型コロナウイルス感染症のせいで色んな物事が中止になり、延期になり、外に行くのも自粛、国同士はおろか大阪と兵庫(猪名川を挟んであっちとこっち。)の移動も制限。


自分が生きている時代にこんなことになるなんて、思ってもみなかったし、今から予想される色んな事態で世界中が今よりも貧しくなる。(あくまでも今と比べてである。)ある意味で何かの時代の終わりであり、また始まりであり、それでも地球は滅亡しなかった。(あと5分。)


それでもわたしは倒れない限りこの店でお客さんを待ち、猫と店長の世話をして、コーヒーを淹れて、楽譜を眺めたりしながら、本当の春への準備をしている。本当の春がくる前に季節は夏になるのだろう。わたしにとっては延期になった11月の定期公演までは長い長い冬だ。(あと3分。)


定期公演の中止延期を決めてから頭を離れないイメージがある。


わたしはステージでブエノスアイレスの冬を演奏している。客電(客席の照明)は落ち、わたしとメンバーだけがステージにいる。(ほら、地球滅亡の日は終わりまた新しい1日が始まった。)


無表情なテーマが繰り返され、だんだんとだんだんと綻んで、湿気を帯びたり、蕾が萌え出でたりしてくる。少しずつ表情が和らいで(本当に少しずつ)、みーこが上手にritをかけて(そのベースに自分はドミナント音をロングトーンしている。)、そして、あの変ホ長調に入るとき、自分の目頭が熱くなるのだ。


ああ、やっと春がきたんやわ


と、やっと、そのとき思うのだ。多分。

ブエノスアイレスの四季はおそらく季節の描写ではない。やはりこれはピアソラにしかできない、『人の琴線を表現する』音楽なのだと、このイメージの中のわたしはそれを理解するのだ。身に染みてわかるのだ。


目に見える春はもうそこに来ている。それはリアルな世界であり、今起こっている映画や物語の中みたいな物事も全てリアルな世界で起こっていることだ。


それでもたまに、自分のからだが自分でないように感じることがある。そんなときにこのイメージが沸き上がってくる。ブエノスアイレスの四季がわたしに与えるテーゼは11月のその瞬間まで自分のものにならないのかもしれない。そのときやっと、自分は自分を取り戻すのかもしれない。


わたしにとってのコロナショックは、わたしの中のわたしを流浪の民にしてしまった。それでもわたしはリアルな世界に生きていることが、不思議でならない。















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