好奇心旺盛な私が身につけた護身術

 全ての始まりは好奇心。

 私の性格はよくも悪くもよく考える性格だ。色々な事柄の背景にある原理や仕組み、本質に常に興味を持っている。例えば、アパレルのアルバイトを経験した後に、塾のアルバイトを経験したとする。そのときにどれくらい自分が以前のアルバイトで学んだ知識が生かせるのかに興味を持つ。そこでわかる「違い」に注目することで、コミュニケーションにおいての本質を見いだせるのではないかと考えているのだ。しかし、そんな私が母親によく言われることは「突拍子もなく行動しないで。」という言葉だった。

今、私はすごい矛盾していることを言っているようだが、私が好奇心に突き動かされていると考えるとどうだろうか。好奇心があるからよく物事について考えて、好奇心があるから突拍子もなく行動する。そのように考えると筋が通る。

 好奇心のデメリット

 私は好奇心のデメリットは何かと聞かれたときに、私がいつも母親に言われているように「突拍子もなく行動すること」や「思慮が浅く失敗する可能性があること」だと思う。私もそのせいで周りの方々に迷惑をかけたり、心配されたりすることが少なからずあった。きっと好奇心の強い人あるあるなんじゃないかと思う。一般的に危険とさせることも何度か乗り越えてきたが、私は好奇心に突き動かされることによる大きな損害というのは未だに経験していない。(親友を失う、多大なお金を水の泡にする、自分自身が危険な目に遭う等)これは勿論、私の能力ではなく環境の良さ、人の良さ、タイミングの良さの運による影響もとても大きいと思う。しかし、運だけでは決して自分自身を守りきれないのは事実だ。ここでは運や環境などの環境的要因ではなく、私自身を助けてくれたであろう主体的要因について考えていきたい。

 「本質」

 それは私が「本質」を追い求める性格であることだと思う。なぜなら、物事の本質を見ることで色々な事柄を自分にとってプラスになるかならないかを見分けることができる。よくきく、「本質から外れる」という言葉は、話題や方針がそもそもの目的や趣旨から違ったものになるときに使われる。ここでわかるのが、そもそも自分が何か目的を持っていないと「本質から外れる」ことができないということ。それは私にとってその場しのぎにすぎないのか、何か自分の求める目的に合っているのかということを見極めるということだ。ここでポイントなのが長期的に見ているかということ。例えば、依存症について考えてみる。厚生労働省のHPによると依存症とは「特定の何かに心を奪われ、やめたくてもやめられない状況になること」である。その対象は物質やプロセス等様々だが、本来の限度をこえて、自分の心の中にある何かを特定のものに依存することで満たされない何かを埋めようとすることは、一時的な解決である。自分の心が本当に満たされない何かを埋めたいと思っている(目的)なら多少時間がかかっても依存症を治し、他のことに取り組むということ。それが私がいう本質をみるということだ。

 本当は自分はどうしたいのかを考えること、そしてその目的を満たすためにやっている行動は適切かを考えること。それは危険なことから私を守るために必要なことであり、身を守るための判断基準になっている。

 

 

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