星野源は何を表現したかったのだろう
大晦日の紅白で、星野源がどんなパフォーマンスをするか、注目していた。
今回の紅白では、出演する星野源が、歌唱する曲を変更するということがあった。
変更に至る経緯は変更時の声明を参照していただきたい。
僕はこの変更に対する私見をnoteで記事にした。
五千字もある記事で恐縮なのだが、端的に言うと、「この曲を変更せず、紅白で歌っても良い、と主張したかったが、それができなかった」という内容のものである。
僕は星野さんのファンであり、一ファンとして今回のパフォーマンスを楽しみにしていたのはもちろんなのだが、一連の経緯を踏まえ、彼が紅白の舞台でどのような発信をするのか、注目せずにはいられなかった。
衝撃だった。
あんな星野源を初めて見た。
開会からにこやかな様子は全くなく、歌う前も、歌っている最中も、そして最後の一言まで、怒りと絶望に満ちた表情をしていた。
圧ではないが、あれほど鬼気迫る星野源は見たことがなかった。
僕は星野さんのファンと言っても、出演番組やドラマを必ずチェックしたりするわけではなく、ライブに行ったこともない。
基本彼の曲を聴き、エッセイを読んでいるだけなので、そもそも星野源という人間をどれだけ理解できているかは怪しい。
だが、星野さんがあのような表現をすることが極めて珍しいことは、多くのファンの方にも共感していただけると思う。
星野源という人間を愛する一ファンとして、彼の意思というものを解釈したいと思った。
ここでその解釈をするにあたっての思考を書き記し、彼のことを知っている方や、彼を愛するファンの方々のささやかな一興になればと思う。
予想を完全に裏切られた
「地獄でなぜ悪い」が変更されたとき、それに対する僕の思い、私見をnoteの記事で述べさせていただいた。
書き進めていく中で彼の「思い」みたいなものが少しでもわかったような気がしたので、それもその記事の中に書いた。
以下はその抜粋である。
彼が「自分が自分の曲を紅白で歌うこと」への批判をSNSで目にし、その批判が誰のためになされているのかを知った時、彼はその人達のために歌唱曲を変更しただけでなく、自分が彼らに何を届けられるのかを考えたのではないかと思う。
今回の紅白のテーマは「あなたへの歌」だった。
苦しい時代を生きる、ひとりひとりに送る歌。
であるならば、性被害を受けたとされる人々に、歌を通じて何を届けられるのか、きっとそのことに思いを巡らせたのではないだろうか。
歌唱曲が「ばらばら」に変更されるということを受けて、この曲を歌うこと自体が歌唱曲変更に対するカウンターになっているのではないか、という見解もSNSで散見された。
確かに、歌詞を読むとそう思うのもわかる。
自分になんの咎もないのに自分の曲が表で歌えなくなること、歌に込めた思いなどお構いなしに性加害のイメージを背負うことになること。そういうことへの嘆きや怒りが、
『世界はひとつじゃない』
『ぼくらはひとつになれない』(星野源 「ばらばら」 より)
という歌詞に込められるのではないか。
そう考えるのはおかしなことではないと思う。
だが、彼が被害に遭われた方にも届く曲としてこの曲を選んでいる以上、それはあり得ないと思った。
彼らにそういった私的な怒りや皮肉を届けて何になるというのだろう。
彼はそういう人間ではない。
「ばらばら」の歌詞に込められているものが何なのか、星野さん以外の人間が完全に理解することは不可能だ。当然僕にもわからない。
だが、この曲に込められているものを伝えることで、少しでも彼らにプラスな何かを受け取ってもらえると思ったからこそ、この曲を歌うことにしたのだと、そう思っていた。
彼が紅白でどのようにこの曲を歌うか、はっきりと予想していたわけではなかったが、そのステージでこの曲を弾き語る星野さんは、それまでに僕が考えていたことからは想像もつかない姿だった。
怒り、絶望、闇。
それらをすべての人間に向かって強烈に放っているような、鬼気迫る表情。
彼があんな顔をしたことがあっただろうか。
圧迫感すら感じた。凄まじかった。
正直、思った。
やはりこれはカウンターなのではないか。
特に、
『本物はあなた わたしも本物』(星野源 「ばらばら」 より)
という、このステージで初めて変更された歌詞を聞いた時、「自分の歌を封じた人々と自分とを対比させているのではないか」という思いに、僕はならざるを得なかった。
星野源は、怒っている。
しかし、それでも、彼がこのステージで自分のために怒りを表現するはずはない。
それだけは僕の中で確信的に思っている。
では、彼がこのステージで、この紅白で表現したかったこととは、何なのだろうか。
彼が表現したかったこととは
改めて考えてみて、ある自分の浅慮に気づく。
性被害に遭ったであろう方々に対して、その苦しみに対して、第三者に出来ることなど、果たして存在するのだろうか。
歌は人に寄り添い、励ましてくれる。しかし、性被害という計り知れない苦しみを前に、当事者ではない人間がその苦しみに対してどれほどのことをしてあげられるだろう。「自分の歌は彼らを助けられる」と思うこと自体が、おこがましいことなのではないか。そう考えてもおかしくはない。
では、彼があのステージで、怒りや絶望を表現した理由は何だったんだろうか。
あれは一体、誰に、何のために発せられていたのだろうか。
それが、どれだけ考えてもわからない。
オープニングとエンディングにちらりと写ったときも、終始硬い表情をしていた。
開始10秒以上の沈黙。
歌詞の変更。
曲が終わる直前に入れた二言と、その間。
明らかに彼は、何らかを意図的に表しているように見えた。
だが、何度そのステージを見返しても、ネットの様々な意見を読んでも、彼が何を、何に向けて発しているのか、僕にはわからなかった。
彼が何に対して怒りを湛えていたのか、なぜそれを我々に届けたかったのか、そして、なぜ我々は、彼の怒りと闇にここまで感動するのか。
それらを一晩中考えていたが、全てがわからないままリアルに夜が明けてしまった。
考えすぎである
ここまで書いてきた文章を改めて読み返して思う。
俺は考えすぎである。
そもそも、本人ではない人間、ましてや会ったこともなければ音楽家でもない一ファンが、その人の考えていることを推測しようとすること自体、不正確な試みであることこの上ない。
自分に何がわかるというのだろう。
そして、人間の考えていることというのは、常にクリアで言語化できるものであるわけではない。
「自分はこれこれこういう風に考えていました」とか、「コレとコレとコレを伝えたくて歌いました」などとはっきり言えることの方が稀なのかもしれない。
ましてや、本人ではない人が「彼はこういう風に考えていたと思います」と言おうとするのは、不正確な上にそもそも不可能な試みである可能性があるわけである。
そもそも歌手の仕事は歌うことであり、ステージの上で歌手ができることというのは、自分の曲を精一杯歌い上げることだけだ。
そう考えると、今回の紅白での星野源の一貫したある態度について言えるとすれば、彼が100%シリアスな状態でのパフォーマンスを目指していたのではないかということ、そして、そうすることに決めた背景に曲変更の一件が絡んでいるだろうということ、それだけであると僕は思う。
それ以上のことを語るのは不正確すぎる。
作ろうと思ったら絶対に作れない姿
最後にもう一つだけ付け加えさせていただくとすれば、やはり星野さんは誰かに怒っているわけではないと思う。
他人に対して100%の怒りをぶつけるのは難しい。
怒りというのは他者への攻撃であり、それには必ず反撃されることへの恐怖が伴う。
紅白のステージで星野源が見せた姿は、誰かに怒りをぶつけようとか、怒りや絶望を表現しようとしてできるものではないと思うのだ。
すなわち、100%のシリアスを目指してパフォーマンスすれば、あそこまでの凄まじさ、迫ってくるような鬼気を放つことが可能な表現者なのだということである。
100%のシリアス。100%の厳粛さ。
これが、僕なりの結論である。
その後のラジオで見せたいつもの姿
紅白歌合戦が終わってから一時間後に、「星野源のオールナイトニッポン」が放送された。
生放送であり、終了したばかりの紅白について何か語るだろうかと思い、久しぶりに聞くことにした。
いつもと変わらない、優しい星野さんに戻っていた。
曲変更のことについては何も語らなかったが、紅白でのステージに感動した旨のお便りを読んで涙する場面もあった。きっと相当な覚悟をもって紅白に臨んだのだろう。
それ以外のラジオの大部分は、本当にいつもと変わらない、優しい星野さんだった。
優しさとは何かを説明することは、僕にはまだできない。だが、星野さんにあるのは、どんな人の心にも寄り添い、味方でいようとしてくれる、本当の優しさだと、僕は思っている。
星野さん、紅白のステージ、素晴らしかったです。
何の曲を歌っているか、どんな歌詞を語っているかではなく、歌っている姿、放つオーラで感動して涙が出そうになったのは、これが初めてです。
あなたが生み出したものにどれだけ助けられ、心を豊かにしてもらったかわかりません。
どうかこれからもお元気で、元気な姿を僕たちに見せてください。
最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。