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紅白で「地獄でなぜ悪い」が変更されたことへの私見

紅白で「地獄でなぜ悪い」が歌唱曲から変更されたその日から、その是非についてずっと考えている。

僕は9年前に紅白で歌われた「SUN」を聴き、それから星野源と言う人間を知った。それ以来、彼のファンだ。
歌も著作も大好きで、何より彼の人柄と考え方を愛している。
極めておこがましいことを承知で言うと、「自分より優しい人間かもしれない」と思える初めての人間が星野源だった。

その彼が作った「地獄でなぜ悪い」という曲も、心の底から好きだと言える曲で、今回の紅白で弾き語りで歌われることになった時には本当にうれしかった。
このステージでどれだけの人が勇気づけられ、9年前の自分のように星野源という人間を知って人生を豊かにすることができるだろうと思うと、わくわくする気持ちだった。

この曲が歌唱曲から変更されることになった。
残念至極だったのは言うまでもない。
その変更の経緯を説明する文章で、園子温氏の性加害疑惑のことを初めて知った。
そして、歌唱曲を変更するためにSNSなどで運動している人々がいて、それが変更の大きな要因になっているだろうことも知った。

その運動の中には、紅白でその曲を歌うことにした星野源に対し、性加害者を後押ししたいのかと主張するものもあった。
これには正直憤りを覚えた。
何の罪もない音楽家が性加害と一切関係のない自分の曲を歌うことに対し、その行為のみをもってその音楽家と性加害とを結びつけようとするならば、それはその音楽家への誹謗ですらある、と感じた。
「星野源がそんなことしたいわけないだろ」という憤りである。

今回の件の一連の流れを見て率直に感じたのは、「やりすぎだろう」という気持ちだった。
星野源本人もその楽曲も、園氏の性加害疑惑とは一切何の関係もない。
何の罪もない人が作った何の罪もない曲が、なぜ表舞台から消されなければならないのか。
そのことを、歌唱曲の変更を知った時からずっと考えていた。

正直言って、なんとかして「星野源が紅白で『地獄でなぜ悪い』を歌うこと」を正当化し、自分の中だけでも納得したいという思いだった。
それで自分なりに色々考えてみたのだが、結論から言うと「星野源が紅白で『地獄でなぜ悪い』を歌うこと」を正しいと主張することはできなかった。

そもそもこういうことの是非を主張するためには理屈がいる。
過去の事例などを参照して論理的な文章を書くべきである。
だが、僕は芸術分野に関してはずぶの素人だ。
あまりにも音楽界と映画界、そしていわゆるポリコレへの知識が無さすぎる。今から一からすべて調べることもできない。

こういう時に、専門家という存在にいかに価値があるかを痛感する。
今回の件について今の自分が何か言いたければ、せいぜい「自分が何を考えたか」を書き記すことしかできない。
というわけで、僕がなぜ今回の変更を間違っていると言えなかったかについて記していこうと思う。
今回の件で納得がいっていない人に、少しでも共感していただいて諦めをつける一助になれば幸いである。

紅白で「地獄でなぜ悪い」を歌唱することへの批判

前提として、今回の件で最も問題視されているのは、この曲が性加害疑惑のあった映画監督、園子温氏の作品と深い関係にある曲だということである。
星野源は、園氏の制作した「地獄でなぜ悪い」というタイトルの映画の主題歌として同名のタイトルの曲を制作した。彼はその映画に俳優として出演もしている。

そのうえで、星野源が紅白で「地獄で-」を歌うことへの批判の根拠は、大きく分けて二つある。

  • 歌唱が加害者である(とされている)園子温氏の復帰を後押しする

  • 歌唱が被害者への二次加害に当たる

これらが実際にそうなのか、そしてこのことで紅白での歌唱が本当に否定されるべきなのか、というのが、今回の変更の是非を問う論点になる。

歌唱が加害者である(とされている)園子温氏の復帰を後押しする

あの曲が紅白で歌われることで、園氏にお墨付きを与え、復帰を後押しすることになるから、歌われるべきでない、という批判である。

これは性加害に限ったことではないが、罪を犯した人物やその作品を公共放送で取り上げるべきではない、ということには同意する。
今回の件で言うと、園氏が本当に性加害を行ったとするならば、園氏とその作品は公共放送からは排斥されるべきだ。

ただ、先述したように今回の場合は、星野源も「地獄でなぜ悪い」という曲も、園氏と園氏の作品ではない。ゆえにこの理屈で公共放送から排斥されるべきだというのは間違いなのだが、この曲はただの主題歌というにはあまりにも園氏の作品と深い関係にある。タイトルは映画と同じで内容の一部も映画から着想を得ており、タイアップして制作されている。

この曲が歌われることで、園氏の復帰が後押しされるかどうか、それはわからない。性加害疑惑があってメディアに出演できなかった監督が、歌番組で自分の作品の主題歌が歌われることで復帰の足掛かりになったという事例が今までにあるのか、僕にはわからない。

だが、可能性はあると思う。その可能性を排除するために、園氏を排斥するためにこの曲をも公共放送から排斥すべきだというのが、歌唱曲の変更を求める人々の根拠の一つである。

だが、待ってほしい。その排斥において、何の罪もない人が作った何の罪もない曲を表舞台から消し去ろうとする行為の重みも、ちゃんと考えているだろうか。

今回の件で楽曲の変更を主張する人々が言うのは、「楽曲自体に罪はなく、ライブや個人では楽しめばよいが、国民的番組である紅白歌合戦で歌うのは不適切だ」ということである。

だが、それは「NHKの紅白はダメだが民放なら良い」ということではないだろう。彼らの基準では恐らく民放でもダメだし、ラジオでもダメだと思う。
今回紅白で歌えない曲になるということは、今後あの曲が表では歌えない曲になるということだ。何の罪もない曲をそのように扱うことを、当たり前のように行うことが、100%正しい正義だろうか。

いくら曲の内容が園氏の映画に着想を得たものだとは言え、あの映画の讃美歌であるというわけではない。作曲した星野さんもこう述べている。

星野は2012年にくも膜下出血で倒れ、その闘病期に病院でこの楽曲の作詞をしました。詞の内容は、星野の個人的な経験・想いをもとに執筆されたものです。後述する映画のストーリーを音楽として表現したものではありません。星野源の中から生まれた、星野源の歌です。

星野源 公式ウェブサイト 「第75回NHK紅白歌合戦」出場楽曲変更について より

であれば、タイトル紹介をしないなど、なるべく園氏を表に出さない形をとれば、園氏にお墨付きを与えないような形で歌唱することもできるのではないだろうか。

言うまでもなく性加害は絶対悪だ。性加害者を表舞台に立たせるべきではない。
だが、その一方で、何の罪もない人々や作品はなるべくその排斥に巻き込むべきではないとも思う。
地獄でなぜ悪いという曲をなるべく表で歌えるようにするような工夫があったとしても、それは間違いとは言い切れないのではないだろうか。

とはいうものの、やはりこの曲の制作経緯を見ても、園氏の同名の映画の制作に、星野さんが部分的ではあれ主体的に関わっていたという見方は正しいだろう。そういう立場の人間の責任として、主体的にこの楽曲を歌うことを辞退すべきだという論もまた、正しいのかもしれない。

では、正しいはずの楽曲の変更に対し、なぜこれほど批判的な意見が散見されるのか。これについても、持論を述べさせていただきたい。
それは、性加害と性加害者を憎むあまり、自らの主張によって失われたり損なわれたりする物事があるということに対して、配慮や申し訳なさといった感情が綺麗に一ミリたりとも現れていないというところなのではないだろうか。

それはつまり、特に何も考えずに好きなものを見たり好きなことをやっていたところに、いきなり「あなたが楽しんでいるものは間違っている!!!」と言わば土足で荒らしまわって取り上げるみたいな行為に映っているということだ。
特に今回は星野さんが全く加害者ではないので、なおさらその思いは強くなると思う。
今回の件で紅白での「地獄でなぜ悪い」の弾き語りはできなくなり、おそらく今後表で歌える曲ではなくなった。
それは事実として楽曲変更を迫った人々の行動の結果であるのだが、そのことに対する「うしろめたさ」みたいなものを、彼らからは一切全く感じないのだ。

それはなぜかというと、彼らが彼らの中の正義を実行しているからである。

彼らの中の、と言ったが、実際にそれは正義だ。ポリコレは正しい。弱者や苦しんでいる人々のために行動する行為に表立ってケチなどつけようがない。彼らだって鉄の嵐のような批判や誹謗中傷の中で戦っているのであり、その結果として苦しむ人々が減っているのだから、正義以外の何物でもない。

だが、悲しいことに、あらゆるものは誰かの苦しみとなりうる。万人が見るテレビで正義を実行し続ければ、そこにはもう面白いものは何も残っていないだろう。そして、代わりに、より限られたコミュニティであるネットやSNSで、ポリコレからかけ離れたものが生み出されていくのである。そしてネット空間でも正義を実行しなければならない。いたちごっこだ。

しかも、だ。世界では、正義の側が負けているケースも多々ある。多数決においては、正義の側が少数派であれば、容易に負ける。為政者が正義を実行しなくなってしまえば、その治世は容易に地獄と化す。

ではどうすればいいのか。どうすれば人々は救われるのか。それはもう、苦しみそのものを減らす方法を確立するしかない。性被害の苦しみの一つにはPTSDという名前が付いている。これが病であり、身体の中で起きている以上、医学によって苦しみから解放される可能性が確実にある。人間の心の苦しみが精神の中で起きているのならば、その精神を物理的に解明し、苦しみというものの構成と機序を理解した上で、それを終わらせる方法を見つけるしか、ないのである。最後に持論になって申し訳ないが、医学の進歩を信じている。今のままでは全然人々を救えていない。精神医学の発展を願ってやまない。

「歌唱が被害者への二次加害に当たる」

このことについては星野さん本人も、声明文で「その可能性を否定できない」と言っている。

この曲を紅白歌合戦の舞台で歌唱することが、二次加害にあたる可能性があるという一部の指摘について、私たちはその可能性を完全に否定することはできません。

星野源 公式ウェブサイト「第75回NHK紅白歌合戦」出場楽曲変更について より

今回の場合の二次加害とは、性被害を受けた女性に、この曲を歌うことで自分が受けた被害を想起させ、苦しませることを言うのだろう。

二次加害の可能性があることは間違いない。この曲の歌唱シーンを聞くことで堪えがたい苦痛を覚える方がいるのは、悲しいことだが事実であると思う。

その苦痛を小さく見積もるつもりは毛頭ない。僕自身は性被害にあったことはないが、その苦しみがいかに甚大であるかは想像に難くない。ここでその苦しみに触れることで、これを読んでくださっている方の中に一人でも心を痛める方がいるかもしれないと思うと、心から申し訳ない気持ちになる。

結局のところ、被害に遭われた方のことを思えば思うほど、可能な限り二次被害を小さくすべきだと考えるのは当然のことで、であるがゆえに僕は今回の変更を間違っているということはできなかったのだ。きっと星野さんも、それが理由で自ら楽曲を変更したのだと思う。

星野さんは著書「働く男」の中でこう書いている。

今でもたまに、「音楽で世界を変えたい」と言う人がいる。僕は「音楽で世界は変えられない」と思っている。無理だ。音楽にそんな力はない。他の業界に比べて音楽業界は夢見がちな人が多い気がする。スタッフには「元ミュージシャン」とか表舞台に名残がある人も多いから、社会性のない人も多い。そんな人に限って言うのである。「君ら日本を変えられるよ」とかなんとか。
そんなもんは戯れ言である。国を変えるのはいつでも政治だし、政治を変えるのはいつでも金の力だ。そこに音楽は介入できない。できたとしても、X JAPANの楽曲を使って型破りというイメージを定着させた小泉純一郎のように、ただ利用されるだけだ。
でも、音楽でたった一人の人間は変えられるかもしれないと思う。たった一人の人間の心を支えられるかもしれないと思う。音楽は真ん中に立つ主役ではなく、人間に、人生に添えるものであると思う。

星野源「働く男」より

今回の紅白歌合戦のテーマは「あなたへの歌」だ。星野源が楽曲を変更した理由が、たった一人かもしれない誰かを傷つけないためであるならば、変更した後の曲である「ばらばら」も、「その人への歌」ということにもなる。であるならば、そこに「皮肉」や「カウンターめいた何か」を込めるなど、絶対にありえないな、と思う。彼はそんなことをする男ではない。

今回の変更も、結局は星野さん本人の意思で決めたことで、変更の是非を巡る争いなど、星野さんにとってはどうでもいいことなのかもしれない。今回の騒動で星野さんが、今も苦しんでいる人だけのために手を差し伸べたならば、その尊い二者を挟んで言い争うことなど、あまりにも喧しく野暮なことではないかなと、思う。

最後に

僕は今でも紅白で「地獄でなぜ悪い」を歌ってほしいと思っている。と同時に、性被害に遭われた方が救われることも、心から願っている。そして、結果的に星野さんが被害に遭われた方々に手を差し伸べたことに、心から敬意と賛意を表する。全部両立するんだなぁ。と思いました。


(これは私個人の完全な私見です。星野さんのお考えが180°違う可能性もあります。何卒ご了承ください。)

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