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「記憶にございません」において、脳内のホワイトアウトについて記したが、思い出せば、現実世界でのホワイトアウトの経験もある。 ニュージーランドでの留学中、冬にスキーをすることになり、学校の留学生でスキーへと赴いた。自分はスキーの経験が多少あり、最高難易度のコースも苦労することなく楽しく滑れていた。そのスキー場は、とても高い位置にあり、山の上の山を滑り降りるようなものであった。とにかく絶景と楽しさに感動していた。時間も過ぎ、最後の一回というときに、最高難易度のコースに行き、
暗記科目というのは、昔から苦手であった。特に、実用性や意義を感じられないものは覚えが悪かった。興味関心がないと覚える気にすらならない。 中国語のテストの一つに暗唱というものがあった。5行だけなのだが、未修得外国語である上に、発音が難しいため、覚えるのに苦慮した。本番当日、かなりのレベルとスピードを持って暗唱することができた。しかし、教授の前に立った瞬間に頭が真っ白になり、記憶という記憶が飛んだ。やり直し、初めは詰まったものの、変に繋がった単語たちが無意識に吐き出されたこ
当たり前のように日が上り、朝を迎える。明け方のあたりが明るくなり、社会が少しずつ動き、夜勤の人は業務の終わりが見えてくる頃。この時間が最も自分にとって焦る時間なのだ。5時過ぎに起きている時は大概テスト勉強か、夕刻に大量の睡眠時間を確保してしまった自分へと悲憤しているころである。 テスト勉強は毎回、7時ごろに諦めと共に15分ほど床に就くことになる。5時の小鳥たちの囀りは、カウントダウンとともに諦めの合図なのである。そこまで追い込まれるほど期日に追い込んだ過去の自分と、楽観
様々なことを体験した留学だが、最終週のある日、綺麗な月が空高くに登っていた。思えば、留学初日、ニュージーランドは夏だった。真冬の寒空の中飛びたった日本とは真逆の青天は、異文化を象徴するように太陽が登っていた。太陽は、夜9時になっても沈まず、自分の寝るベッドから見上げるほどの位置からから燦々と異文化人である一人の日本人を照らしていた。 英語がほとんどわからないままに、「この道しかない。」と勇気を持って進路を決めた知識の乏しい盲目の高校生の決断を恨むことは、留学をしていた一
週に一回、とある都心部にある、綺麗である程度高層な建物にスーツを着て向かう。周りには目が眩むほどの煌びやかな経歴と、身なりを整えた人が忙しなくすれ違っている。日本の中心である。 溢れんばかりの警備員や守衛の人々に警備を固められたその中で、自分も業務を開始する。時々通路を歩いていると、お偉いさんに間違われ敬礼をされたりする。格好も、険しい顔も間違われる要因なのかもしれない。しかし、そんな中で、胸を張ってコツコツと廊下の石に革靴があたる音を響かせながら闊歩していると、不思議
改めて、イギリスのチャールズ3世国王の戴冠式を見ていたら、おすすめにエリザベス2世の国葬儀の動画が出てきたので、思い出すつもりで見てみた。 動画は、イギリス国歌の「God Save The King」を斉唱する場面だ。女王が崩御し、国歌が「God Save The Queen」から切り替わった初めての斉唱だったとのこと。国歌は、君主を歌う場合、おいて君主はその歌を歌わない。今まで歌っていたPrince of WalesもKingとなった今、その歌を歌うことはない。国歌は
まだまだ人生経験の浅い自分だが、自分を守りながら生きていく上で重要なのは、自分に害のありそうな人、迷惑のかかる人は積極的に遠ざけることだと感じている。そんな中、国際ニュースのトップには外交官追放のニュースが踊っていた。この手のニュースは自分の大好きな言葉を見るためだけに開き、ニュースを読む。 大好きな言葉とは、「好ましからざる者」である。外交官の追放は、外交関係に関するウィーン条約第9条及び領事関係に関するウィーン条約第23条において規定されている。当該国が外交官の追放
ゴールデンウィークも終わり、再び日常生活が舞い戻ってくる。何とも思わなかった日常も、悪魔のような顔をして手ぐすねを引いて待っている。日常が当たり前のように進む幸せを噛み締めるべきだけれども、何事もその中にいればなかなかそれは実感できない。 ゴールデンウィーク明けの月曜日。朝早く起きて始動した。自分はいつも起きなければいけない時間ギリギリと、朝7時にアラームをかける。それは、運が良ければ素晴らしい朝を迎えられるようにという心からの願いと期待を込めて。実際には鬱陶しいほどの
高校時代のある日の帰り道、「棚から牡丹餅」ということわざを使って友人を揶揄したことがあった。その友人の反応は揶揄されたという事実よりも先に、古い言葉をわざわざ使って何様なんだ、という様子であった。そこから、古いことわざは日常的に使いづらいものがあるという話になった。 友人の発想は突飛で、言葉を新しくすれば使えるのではないかというところに着地したようだ。最終的に出た答えは、「ラックからマリトッツォ」であった。なんとも秀逸な言葉選びである。棚をただ英語・カタカナにするシェル
イギリスのチャールズ三世の戴冠式。自分の偏った興味に合わせてインターネットは莫大な関連のニュースを表示してくる。嫌でも表示される戴冠式のニュースに目を通していると、いつの間にかその場に居合わせたような不思議な感覚になる。自分はイギリス人でも、招待されるような皇族でもなければ、イギリスに行ったことすらない。 国王になるとはどのような体験なのだろうか。戴冠式という、国の新たな時代の幕開けを自分が宣言することのできる一世一代の大仕事はどのようなものなのだろうか。招待もされてい
朝7時くらいに目が覚めた。昨夜、「二度寝をしてしまうのは、脳が目の渇きを眠気と勘違いするため」という情報を見かけていた。寝ぼけながらも、ベッドから降り、目薬を挿した。確かに目薬の効果なのか、目が多少覚めた気がする。そんなことを思いながら二度寝した。毎度のこと、ギリギリになって起きた自分は、慌ただしく準備をして出かけた。少しずつ日が長くなり、暖かくなってきた。衆議院の解散も近いとされる中、駅までの道に政治家がいないかと目を凝らして歩を進めた。 この歩みを止めたのはなんと、
暇とは大変苦痛なものである。特に自分のような万物に思いを巡らせ、自分自身に対しても疑義の念を持ってしまう人にとって、何もない時間を多量に与えられることは精神的に安堵の時間ではないのである。どこかの哲学的偉人が「我思う、故に我あり。」と言っていたようだが、その我の存在価値に、今行っている行動にすら思いを巡らせてしまう時間なのである。そんな考えは、自分は幸せになれないのではないかという将来への不安に繋がる。 この解決方法はただ一つ。何かに没頭することなのだ。読書をする、友人
趣味ってなんですか?と聞かれることが最近増えてきた。現在やっていて楽しいと思うのは政治観察だ。しかし、一介の大学生がそんなことを言っても引かれるだけだ。趣味無いんですよねとか、一応写真が趣味ですと答える。引かれはしないが、なかなか理解されないし、面倒だから言わない趣味はたくさん持ち合わせている。 その一つに、コーヒーや紅茶などの飲み物を自分で作るという趣味がある。多額の資金を費やして器具を買い揃え、抽出時間や合わせて食べるものを買い漁っているほどだ。これはなかなか高尚な
「解釈」において、言葉を額面通りに受け取れないと書いた。私の中で捻くれているかもしれないが、最も額面通りに受け取れない言葉は、「頑張って」だ。今まで部活や、大会、発表会などにおいて良く投げかけられてきた言葉だ。その人の健闘や善戦を願って言う言葉である。しかし、「頑張って」と言われると心の中から悲しくなって怒りさえ覚えてしまう状況の時もある。なぜだろう。 頑張ってという言葉には、頑張らなければいけない状況であることを外的に示唆される意味があると感じる。宿題をやろうと思って