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デザインと音楽、流派とパクリ〜オマージュを添えて〜


はじまり

まずはじめに言っておかなければ鳴らないのが、私はデザインと音楽両方において門外漢である。
そもそも、専門的に語れるほどの何かを持っていないので、これから書く文章は、私個人の執筆時点での考えである。

パクリ

「パクリ」という言葉を聞いた際に思い浮かべるのは、オリジナルの作品があり、それを他者が部分的(または全体的)に、自分の作品の中に入れ込むという状況である。
実際に「パクリ」と言われている事例として記憶に新しいのが、東京オリンピックエンブレム問題であると思う。これは当時、佐野研二郎氏がデザインしたロゴが、ベルギーの劇場ロゴと酷似していると、ベルギー側のデザイナーがFacebookにて投稿したのが発端である。
佐野氏はベルギーの劇場ロゴは知らなかったと反論したが、結局オリンピックのエンブレムは白紙となった。
さてここで争点となるのが、佐野氏は本当に「知らなかった」のか。エンブレム問題のあった2015年当時のインターネットは現在とさほど変わらず、意図せずともベルギーの劇場ロゴが目に入っていたかもしれない。そして、目に入ったことすら記憶から排除され、ロゴ単体としての図柄だけがそのまま残留したかもしれない。
もちろん、これは憶測であり証明をすることが不可能であるの違いない。しかし、「知った」「見た」という記憶が排除された対象は、「知っていた」と言えるのだろうか?

流派

流派という言葉を使ったがこれは流行りと言い換えることができる。例えば、印象派、キュビズム、シュルレアリスムなど。この3つは実際に見たことがある!という方も多いと思われる。これらはある画家から、ある地点から中心に広がっていったものであり、多くの作家達に影響を与えた。
しかし、これらの流派のモノの見方、考え方を作品に取り入れたものは、単に「影響を受けた」と言われ、「パクリ」とは言われない。
上の章で書いたような真偽が曖昧な問題に対して、こちらはほぼ確実、確信犯的にフォーマットを流用しているのに。

音楽

私は趣味で音楽を楽しむ程度だが、時折「この曲とあの曲めっちゃ似てるな」と思う時がある。
例を挙げるとking crimson-moonchildと坂本冬美-また君に恋してる、である。明らかにメロディーが似ているし、ネットで調べると過去に同じことを書いているブログを発見した。
これは「パクリ」なのか?そうとも言いきれない。「オマージュ」という概念があるからだ。
オマージュとはあるオリジナルの作品に感銘を受けた他者が、その尊敬ゆえに自身の作品に落とし込むこととされている(少なくとも私はそう解釈している)。しかしパクリとそこまで変わらないじゃないか、そこに尊敬が付け足されただけで。

全ての芸術は音楽に憧れる

批評家ウォルターペイターは「全ての芸術は音楽に憧れる」と言った。これは美学的な意味合いが強い言葉であるが、この言葉をパクリという現象に当てはめてみたいと思う。
音楽はメロディーライン、コード進行といった音の配置が極端に一致したものに「パクリ」のレッテルを貼ることが多い。それに対して「オマージュ」「リスペクト」などと言った反論も用意されている。
デザインも、ある図形、色彩の配置が一致したものに対して「パクリ」と言われる。
この現象は、デザインという視覚芸術は音楽という聴覚芸術に近づいている(憧れている)ことではないか?ウォルターペイターが言ったように。

締め

創作活動の上で、影響を受けることを表す言葉は数多く存在する。
その中で私が好きなのは「換骨奪胎」である。
骨組みを換え、胎(細胞、または脳、またはそれらの総合)を奪う。アイデアを流用して、自らの骨組みに埋め込む。この作業を経た作品に「パクリ」という声は少ないであろう。それは流派、流行りのように「影響を受けた」と処理される。
「パクリ」と言われるものは、胎は違えど、骨組みを元々あったものを使ってしまった作品に言われるのではないだろうか。

論理の飛躍が過ぎる文章になってしまった。お詫び申し上げたい。
ここまで読んで頂いた方には感謝を伝えたい。

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