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救いと絶望

現実的な音楽

最近日本で音楽が売れないなどという話を聞いた、よく聞いてみるとそれは偏ったアーティストや楽曲が大量に売れ、そうでないものは縮小しているということらしい。それは印象なのか事実なのかは分からないが、そう感じる人は一定数いるようだ。事実としては日本の音楽ランキングにおいて洋楽の占める割合は、去年のBillboard JAPANの年間チャートにおいてゼロに近づいているという。それと同じように国内のアーティストでもある程度以上の大きな偏りがあるというのだろう。

だが、そんなことは今に始まったことではなく、世の中には必ず大ヒットがあり、そうでないものもある。問題とされるほどの格差があるとすれば、文化の多様性が失われることにもなる。私がよく思い出すのはバブル時の多様性だ。お金が余っていた時代には、さまざまなジャンルのさまざまなレベルのアーティストやバンドが、メジャーレーベルでデビューしてそれなりのプロモーションで売り出された。その回りにはインディーもあった。そしてそれらを含めた多様性において、当時はゲテモノや飛び道具だと思われていたとしても、異質な才能が脚光を浴びていたという事実は忘れないし、その中のタレントが今でも表でも裏でも活躍しているという事実もある。

誰にでもとは言わないが、ある程度の人には、とても好きなのに自分以外は知らないようなアーティストや楽曲があるのではないだろうか。それらのアーティストたちはどう生きているのだろう。それを考えると現在の状況はそんなに悪くもないと思う。ライフ活動や物販だけではなく、敷居の下がった全世界でのサブスクリプションサービス、そこでの収益化が肌に合わないのならBandcampのようなものもあるし、もっと直接的な方法でファンに楽曲や思いを届けるのも容易になっている。ファンを広げるための活動も昔よりは直接的にできる。どちらにとっても悪くない時代だと思う。

統計的考察の記憶

問題はメインストリームのリスナーの意識かもしれない。以前Spotifyの公開している様々なデータをもとに、統計的考察をしていた記事を読んだ。最初に書かれていた日本で現在でもストリーミングを上回るフィジカルメディアの占有率の高さも、物が欲しい、物として持っていたい、という欲望があるのかと思う。自分の好きなアーティストの場合、リリースされた音楽以外の物販もそうだが、音盤自体のジャケットなど"モノ"が欲しい、そういう欲望は他国の人々よりも強いのかもしれない。記事では音楽業界の一部が今でもストリーミング配信に消極的なことも書いてあったが、基本的に日本人は物にこだわるという傾向がある気がしている。

ようやくストリーミングの占有率が上がりつつあるのは、配信限定や、配信先行、そういうものがあるのかもしれない。そういうプロモーションをやる、できるアーティストはメインストリームなのかもしれないが、さまざまな曲を聞く人にとってもSpotifyのようなストリーミングサービスは有用だ。

記事では日本のヒットは固定されているという事実を、決まった曲の占有率が高く、また過去のヒット曲がチャートに居座っていることも含め、統計から示していた。年間にランクインする曲も他国に比べて少なく、年間となればアーティストの曲は被るので、アーティストのランクインは他国に比べ圧倒的に少ない。そんな世界でも特殊な状況を筆者は、高齢化やプレイリストの活用、推し文化の悪影響、などさまざまな考察をしている。

それぞれの考察結果を読んで楽しかったのだが、一番興味深かったのはフィーチャリングによる相乗効果、多様化だ。日本ではそれがあまり浸透してないというが、私という人間の見る景色ではよくある光景であり、それは確かに視野を広げることでもある。自分の好きなアーティストが自分の知らないアーティストとフィーチャリングの楽曲を出したら、その見知らぬアーティストに興味が出るという自明。そして聞いてみて、自分にフィットするのか、それくらいは誰でも試しそうだと思ってしまう。そう考えると私の見る風景と、現実は乖離しているのだろうかと不思議に思う。

救いと絶望

話を戻し、私がリスナーやアーティストのファンとして思うのは、この便利になった世の中には救いと絶望があるということだ。大メジャーなアーティストではなくても、アーティスト側が伝えたい、広く聞いてほしいという欲望があれば、様々なことができる。それは過去には無理だったし、現在その恩恵にあずかれるのをしあわせだと思う、そして私にとっては救いでもある。フィジカルメディアを欲しいと思えばネットショッピングでも買える、ライブを見に行けなければストリーミング配信の可能性もある。これは本当に私には救いなのだ。

また、情報についても以前だと雑誌やラジオのようなメディア、ファンクラブ的なものの会報、あとはファン同士の横のつながり、そういうものしかなかった。しかし現在はインターネットが普及し、それだけではなくSNSのようなものも当たり前になった。そこでアーティスト側からライブの告知やイベントの情報、セットリストの公開などもできるし、している人たちもいる。そしてストリーミング配信のようなものがあったとしても、行けなかった人にその場所の雰囲気や感想、写真やビデオを投稿してくれるファンもいる。そういう以前のファンの横のつながりの垣根、それがなくなったのも救いなのだ。

だがそれは、私としては絶望でもある。私は地方在住だが、この土地でライブがあったとしても行けるかどうか分からない。肉体的な問題だ。友人なら東京でも行くし誘われる、そして私が彼と行った最後のライブ、現在いる場所からは結構離れた"地元"という都市だったが、その時には体調はギリギリだった。現在の問題は肉体の問題ではあるが、こころの問題だとも思ってしまう。こころが見えない膜を打ち破れない、そう思っているから自分でも質が悪い。そしてSNSなどにある、ライブのレポートがありがたく、救いを感じつつ、同じ思いを持ってそこにいるかもしれない人間として、そこに行けない現実に絶望してしまうのだ。取り残されているような気持ちが刻印として押されてしまう。バカな話とは分かっている。

満足

だからこそ私にとってストリーミング配信は重要だ。そしてSpotifyには毎年の締めくくりに一年の総括があり、去年は聞いた曲数や種類が上位数パーセントに入るとの統計結果だった。そういう情報も面白い。頭でっかちと思うし、本当はもっと破り裂いて肉体を開放しないといけないのだろうが、それもこれも自業自得、だが朝は普通に歩き回っている。歩くために歩くだけ。そしてそこにはいつも音楽がある。今のところそれが私のルーチンで、満足はしているのだ。ただどこかにある絶望もずっと内包している。



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