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085_名前がない女

A子さんは苗字も名前もありふれたものでした。小学生の頃から、学年に同じ苗字の子が数人いたので常にフルネームで呼ばれていました。同じクラスに同じ苗字が2人いたこともあり、その年はファーストネームで呼ばれていました。

社会人になった時も、やはり職場の中に数人同じ苗字の人がいました。そんな事には慣れっこになっていましたから、ここでもフルネームで呼ばれていました。

「同姓同名は世の中に沢山いるのだろうけど、自分にとってはたった一つの名前です。でも自分の苗字も名前も好きだと思った時はないですね」
A子さんはこう言って笑いました。
「もっとカッコいい名前にして欲しかったと、親に対して思ったことがありましたけど、だからと言ってそんな名前を自分でも思いつきませんでした」

A子さんは結婚しました。お相手は学生時代の先輩です。夫の苗字はありふれたものではなく特に変わった名前でもなく、少なくとも学校の学年に何人もいるという名前ではありませんでした。

結婚の直後に職場を辞めて馴染みのない土地へ引っ越しました。夫が通勤の際に直通で行けるから、という理由でした。

夫の名前を名乗って、だから何かが変わったような自覚はありませんでしたが、気がつくと常時フルネームで呼ばれることからは解放されていました。周囲にはA子さんの旧姓を知る人はいなかったからです。

「名前って社会にとって一種の判別するための記号なのかなと思ったんです。それに拘る人もいるのでしょうけど、私も夫も敷居が高いような家柄じゃないし本当にただの庶民ですから、名前が何か特別なものであるという自覚はないですからね」

つまりA子さんにとって、自分の属性の記号が変わっただけ、という事でしょうか。

A子さんは第一子を出産しました。妊娠中にあれこれと考え、自分としてはとても気に入った素敵な名前をつけました。
「自分で自分の名前が気に入らなくて、他に何が良いということはなかったのですけど。でも本当に自分の好きな名前を子どもにつけることができて、とても嬉しかったです」
赤ちゃんに対して常に愛称の「ユッキー」と呼んでいました。

ある日A子さんが赤ちゃんを抱いて道を歩いていた時の事です。通りの向こうから同じような年齢で赤ちゃんを抱いた女性が歩いてきました。
何気なく目が合うと、相手はニッコリと笑いました。A子さんも会釈をしました。
「…近くにお住まいですか?」
相手は声をかけてきました。
「可愛い子ね。名前は?」
それから二人は立ち話を始めました。どうも相手はA子さんと年齢が近く、境遇も同じのようです。
「…じゃあ、この子と学年一緒ですね。え、あそこのマンションなの? じゃあたぶん学区も一緒ね」

ガクネン、ガック…? A子さんの日常の意識にない言葉でした。そうなんだ?

二人はスマホの携帯番号を交換しました。何かあったら連絡を取り合おうね、と言って別れました。

その夜、A子さんは会社から帰宅した夫にその話をしました。
「ママ友ができたの? よかったね。で、その人の名前は何ていうの?」
A子さんはハッと気づきました。
「赤ちゃんの名前はミーちゃんというの」
「…いや、だからそのママの名前だよ」
「え? わかんない」

A子さんは相手のママにメールアドレスを聞けば分かると思いました。それでショートメールを送りました。「メルアド教えて」

返事が来ました。A子さんは目が点になりました。
「miichan_ilove_1225@**********」

考えてみれば自分のメールアドレスも、
「yukki-piyopiyo32102921@**********」
なので夫婦で大笑いしました。

その後のA子さんはあまり自分の名前を聞く事はなく、もっぱら「ユッキーのママ」と呼ばれて暮らしています。

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