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あくせく仕事 / エッセイ

 あくせくと過ごす日々、少ない方が珍しい現代。その昔、私は世間にありふれた忙殺という殺られ方によって一遍完全にへこたれた。それから長いこと色々あったが、端折ってしまって現在はすこぶる調子がよい。

 しかしここのところ、例の多忙というヒレつきの悪魔がその影をチラつかせている。まだ完全には姿を現さない塩梅で。くるぶしが見えたり、肘が見えたりする感じで。それでも難なくヤツだとわかる。あら、来たのね、という気構えで私は何ひとつ動じない。確かに忙しさは増している。そのことは間違いなく感じでいるし、それはヤツの仕業だろう。それでも私はヤツに、おう、よう来たな、まあこっちおあがり、と桂米朝ばりの大阪弁でゆうたりたいぐらいですわ。

 具体的にとっている行動としては、やる仕事量は多いために業務時間にはバリバリと仕事をこなす。しかし昼休みには仕事の全てに無視を決め込むのである。今日など、ケツに火がついているのに泉鏡花を読んでやった。明日にはケツの火がうなじを焼いていることだろうが、私は昼食を堪能したあとで、悠々とダンテの神曲を読むつもりでいる。そしてにっちもさっちもいかない場合を除いては定時で荷物まとめてズラかる。これである。

 仕事を自分の唯一の世界にしてはいけない。仕事を好くのはよいし、プライベートの時間を利用してその勉強に励むのも素晴らしい。しかし自分の生きる世界を仕事に譲り渡してはいけない。それでペシャンコになった私の経験から言えることである。

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