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ポンコツ / エッセイ

 ポンコツという言葉がある。大辞林には次のようにある。

大辞林より

 ①の屠殺については知らなかった。我々がよく使う意味は②のようだが、日常で使う場合には老朽化してということは意識しない。用をたさない、的を得ない、要領を得ず、何なら側迷惑なものへの抗議や嘲りを滲ませて用いる言葉である。
 私は日常このようなはしたない言葉は使わない。しかし、ああ、これがポンコツというやつか、とポンコツの権化のような男に出会ったので、微力ながら世のポンコツ是正のためにある夜の出来事をかいつまんでお伝えしたい。

 私は会社の帰りがけにいつも気になっていたバーに入ってみた。すると華奢な首をした歳の頃四十後半あたりの男がこちらを振り向いて、いらっしゃい、へへ、と言った。そしてその言葉のあと、

「今、嫁が怒ってて」

 と呟いた。私はこの時すでにポンコツの匂いを嗅ぎ取っている。私はカウンターのなかほどに座った。男の小さな頭にはツバが曲がっていないあのヒップホップな帽子がのっている。

「嫁がね、不機嫌なんすよ」

 女って気難しいっすよね? というような同調を求める萎びた笑みをこちらに向けてきたので、私は想像のなかでその直線的なツバを折ってやった。

 とりあえずビールにした。
 理由は知らぬが、嫁が不機嫌になるのも当然のように思われた。何せ私が既に愉快ではない。おそらくこの男のことである。どうせ何か気に触るへまをしたのだろう。と考えるうちなぜ男の嫁が不機嫌なのか気になってきた。でもこちらからは尋ねたくない。

「ちょっと嫁からね、今、LINEきてて、すんません、ちょっと、ちょっと、あ、えー、すんません、っと、へへ、嫁がね、聞いてくれはります?」

 そりゃそうか。こうもしきりに嫁が嫁がと鳴く男、こちらから尋ねずとも箪笥にでも喋りだすに決まっている。

「嫁がね、半年ぐらい前からずっと不機嫌なんすよ」
「はあ、半年ですか」
「結婚して一年なんですけどね」
「まだまだ新婚のうちじゃないですか」
「なんで怒ってるんか分かんないんすよ」
「話はしないんですか」
「すれ違いゆうか、怒ってるし、嫁が寝てから帰るんすよ」
「はあ」
「会話ないですし、空気、嫌じゃないすか」
「はあ」
「LINEもね、捨てるよって、ごはんもう捨てるよって、作ってくれてるんすよ、嫁が。けど起きてすぐいらないんすよね、だからちょっとだけ食べてね、口つけたよ、って。いらないんすけどね。ごはんなんて作ってくれなくても、結婚するまで一人やったし、外食でもコンビニ弁当でもいいんすよ」

 床の隅でわだかまるホコリのような男である。いや、ホコリのほうがふわふわしているし、ごちゃごちゃ能書きを垂れないだけ可愛げがある。

「休みの日に奥さんと出かけたりはしないんですか」
「店休みないんすよ」
「ほう、そうなんですか」
「だから完全なすれ違いですよ。ずっと不機嫌やから僕は嫁が寝てから帰りますし、嫁が仕事行く時は寝たふりしてます。ほんまは起きてるんですけどね」
「休みはつくらないんですか」
「へへ、まあねえ」

 腹が立ってきたのでここでちょっと直言してみた。

「仕事ばっかりで二人の日常がないからじゃないですか。結婚した意味がないというか、大事にされてないというか」
「そうっすよね、休みつくらなとは思うんすけどね」
「休みは必要でしょうね」
「結婚して一年間一回も同じテーブルでごはん食べたことないですからね」

 何を自慢気にほざいているのか。お前がそうしてきたのだろう。そしていまだに夜は鼠のように隠れて帰っては、朝は狸のように嘘寝をかましている。ポンのコツではないか。

「同じ趣味がないんすよ。話題がないんすよ。それがだめやと思うんすよ。僕はテレビが好きで、むこうは本が好きなんです。僕はアニメ観るんすよ、けどむこうは漫画なんです。もっとテレビ観てくれたら話できるのになあ」
「はあ」
「たまに話してもパートの話ばっかなんすよ。もっと他に話題あるやろって思うんすよ」

 お前の持ち駒はどうなのだ?
 お前はこそこそ逃げているそうじゃないか。
 お前が二人の時間をつくらないから喋る話題がないのだろう。

「あ、嫁がちょっと用で実家に二週間帰るんすよ」
「はあ」
「やっと家でゆっくりできるって思ってね」
「はあ」
「まあでも、子どもつくったら変わると思うんすよね」

 ここで新たな客が一人。
 私はチェックした。
 男は客としゃべりながら金額の書かれた紙切れを私に渡し、しゃべりながら金を受け取り、しゃべりながら釣り銭を返した。
 ポンコツに違いない。

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