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自信家の弱点 / エッセイ

 自信家の知人がいます。そうでない知人もいます。前者は胸を張って意見を述べ、後者はそのような意見に耳を傾けています。自信のある人を世間は理想的な人物のようにパッケージに入れて扱います。気の弱い人はそんな自信満々の立ち居振る舞いを見て憧れたりしています。しかしです。自信家は非常に打たれ弱い場合がある。自信家の自意識としては、自分という人間は周囲より優れていなければならないわけです。しかし彼女ら彼らも人間です。盛大に失敗しますし、月並みにヘボいです。そんなヘマをかましてしまった場合、彼女ら彼らはそれを受け入れることができません。認知的不協和に非常に弱い。やらかしたことは事実であり、やらかしたのは自分であるにも関わらず、自分のせいではないという幻の理由をでっちあげて自己を正当化する。これはなかなかしんどいだろうなと思います。

 一方、自分は大した人間ではなくて偉い人は沢山いると思っている人がいます。あまり自暴自棄な人は別でしょうが、自分の分際をよくわきまえている人ということです。この人たちは自分はすごいなどと思ってはいません。自信家にすれば信じがたい自信のなさでしょう。人のあとを歩くような、日陰に住まうような、そんな人間に映ることでしょう。しかし、このような人だって普通に優れています。特技もあれば知識も経験も人情だって優れています。別に何をも持たないから自信家ではないのではありません。他にいくらでも優れた人はいてるし、尊敬に値する人だっていてる。それに比して、自分なんてくだらない、とまで卑下するわけではなく、自分は自分なりとし、自分の周囲という狭い世界のなかで去勢を張らなければならないほどに自己肯定感が低くないということだと私は思うのです。

 現代は経済システム上、サバイバルの側面があります。そのよくわからないゲームの勝ち組が華やかな存在として演習され、こうなりたいと、それがポジティブで健康的なことだと信じているようです。その結果、詐欺まがいの小分子がネット上に急増し、ビジネスだ年商だと宣うて、ゆきずりの痕跡を残しています。彼女ら彼らが同じく自信家ではないかもしれませんが、自信家に憧れて自信家のように振る舞っている。自信家がよく使う言葉を鳴き真似て。しかし本質を見なければいけません。自信家とそう見えない人、実は表面的な印象と実際は真逆だという場合は往々にしてあります。自信家であらねばならない、成功者の側、或いは近くにいなければならないと、時代のムードがそのように思わせます。そうでなければ勝ち組になれないと。けれど、そんな見せかけの自信はボール紙です。自信家に憧れ、自らを優れていると手っ取り早く信じはじめた時、自分のなかに弱さが生じるのだと私は思います。それもその弱さはよりによって現代のサバイバルにおいて最も痛手となる弱さです。

 慢心するなと言うことだと思います。それもかりそめの憧れや、承認欲求のために。そんなものに心の安らぎはない。自分は自分と周囲と比べずに客観的にいれるなら、自分のことも周囲のことも出来事も、受け入れることに大きな苦はありませんやね。図に乗っていた昔の青臭い自分にそう言ってやりたい。
 自信なんてものは、率先して自分を買い被った態度のように思える。真剣にやれるだけのことをやり、それを続けてきたなら、どこに自信など持てようか。あるのはやってきたという事実だけです。自信などというものは、まだ見ぬこれからを舐めてかかっています。そんなことどうして思えるのでしょうか。やってきたという事実、それがあるだけです。しかしそれはそのままあります。そのことのほうが、浅はかな自信なんかよりもよっぽど頼りになると思います。

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