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幼心 / エッセイ

 そう広くはない部屋で畳の上、脛をあらわに胡座を組んで、小窓の下の机に向かってこうしているところ。実は晩秋の雨降りで、時折はぐれたか細い風が浅くあけた小窓より流れ入っては、腕やその脛をひやりと撫でるのがなんとも心地よい。空は水に練った灰を塗りたくったようでも、それを陰鬱に思うか清かに感じるかは人それぞれ。私は今、後者としてここに座っている。遠くから近くまでよく降っていて、ざあざあと低く鳴っているけれど、その手前に珠玉の小粒がぴちょんぴちょんと瑞々しい。
 雨の協奏。
 そんな音を聴きながら、こうして文字を書いていると、妙に風情が身にうつってくる。目を上げると透きの小窓の長四角。勢いよく降る雨に遠景が霞んで、庇が靄に抱かれてそぼ濡れて、ようやく「雨やなあ」と思うのが好い。
 好いと言って、そう思うようになったのも近頃のこと。長雨などがまとわりつくと、それは嫌で嫌で仕方がなかった。表に出てはズボンの裾が濡れて冷たくなるのが億劫でならず、部屋にいては嫌に電灯が目玉の裏に眩しくて、それもこれも雨のせいなのである。そのような男が今はこうで、自分ごとながら不思議なものである。すっかり自然物に非常な感興を覚えるようになったのだから。
 そうであると二重に不思議で、自然の匂いや手触りに遊び、さらには同化までしていたのは、果たして幼時の私ではと思われてくるのだった。
 今では「ええもんや」と感じ入っても、いつかの夕立ほど肉体的な官能として浸潤してこないのは、幼心に比して大人心は世なれていて、その分鈍磨であるからかも知れない。誰しも経験があろうと思うが、ふと玄関を出ると残暑が暮れ方にすっと引いて、そよ吹くわずかに冷ややかな風と、ふと夕映えの鮮やかなのを見て、秋だなと感じる。解釈ではなく、風に肌が触れて思い出す。その源流はやはり幼心ではないだろうかという気がするのである。幼気な五分刈りの頭に秋の趣の何たるかなど知らずとも、しっかりと五感が覚えていて、その名残りのようなものが感応する。と、このように考えてみると、今私は幼時が懐かしいのかも知れない。美しいと感じたり、物悲しいと感じたり、それらがみな幼心へ還るようで。幼心がこそ自然を知っているようで。水が手に冷たいのも、土がこよなく柔らかいのも、空の遠さも、草のざらつきも、ずっとずっと昔に知ったこと。無数の糸が過去へと通じており、そっとあいた長四角の硝子窓から雨降る世界へ、空間も時間をも超えて、張りつめてつながっている。耳を澄ませば、目を凝らせば、身をまかせれば、その弦は自然本来に爪弾かれ、懐かしい響きを奏ではじめる。それを私はここにきて思い出したようである。してみると、幼心は胸奥に今でも生きていたということだろう。
 
 そういえば、昨日の昼日中、小道を歩いていると、真っ青な空にいわし雲がわたり、そこに映えた緑の濃い房のあちこちに、赤々と大振りの柘榴が艶めいていた。突如として現れたその果実は、あやしいほど生命に漲って美しかった。私は立ち止まってしばらく茫と見上げていた。この木に枇杷がなることもなければ、柿がなることもない。他を欲しがることもなく、毎年この木はこの季節、柘榴の実をつけるのである。しかし、はて、私は柘榴の実は知っていても柘榴が木になっているところを見たことがなかったのではないか。それにも関わらず無性に懐かしいその赤。この時も情緒は遠い過去のどこかへ還っていたと見える。 
 郷愁の足許にはいつでも少しばかり寂しい花が咲いている。
 今日という日もやがて移ろい遠ざかる。ともすると、これもまたいつかへの幼心となるのかもしれない。

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