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日曜の憂鬱

 日曜の夜である。それもめっきり日が落ちるのも早くなり、十七時半にもなればもう暗い。そのような季節にある日曜の夜である。尚、悪い。

 仕事は好きどころか人生に重ねていたところがあったのだが、身体を壊してからそのような働き方は間違いであったと気づいた。気づいたら気づいたで、忽ちにしてその職業に身を捧げることなどが阿呆らしくなって、本来本当に好きだったことに少ない自分の時間を使うようになった。そうなると、必然的に、仕事が億劫になる。が、億劫というとはぐれ者のようだが、そういった怠惰ではなく、まあ憂鬱なのである。その憂鬱がこの日曜に帳を下している。

 人は一生働き詰めである。長い人生のなかで「ああ、こらしんどい。ちょっと一年ほど家で寝ときたいから、えらいすんまへんけど、そうさしてもらいまっさぁ」と言ったところで、それは叶わない。申請書に判子を押したって同様に叶わない。手続きの方法云々ではなく、叶わないったら叶わないのである。第一、そこまでの蓄えもなけりゃ、気ままに一年も休む奴など、会社のほうだって飼い続けたくはなであろう。生きるためには、働かなければならず、働くためには働く場所、即ち籍を置く会社が必要なのである。そこで一定の努力に励み、それなりの貢献をしなければ、おまんま食いあげ、とこないなことになる。ああ、がんじがらめのきりきりまいである。

 何を勘違いしたのか、鼻息荒く、視野狭く、The自己啓発系ビジネスマンといった金太郎飴さながらの同じ風貌をした男がわんさと湧き出した。私には彼らの違いがまるで分からない。顔も声色も喋り方も使う言葉まで同じに思える。あれはコピー品に違いない。コピーとはギターの楽曲コピーや会議資料のコピーぐらいのものかと思っていたが、人物像のコピーもあるようである。ファッションの流行として、これを真似するのとは違って、どことなく卑しさが垣間見えるのは私だけであろうか。自尊心や虚栄心が増幅している分、代わりといっちゃ何だが頭部のサイドの髪が軒並み減っている。もう冬なのに、あれでは寒かろな。心配である。彼らはかりそめにも生き生きとして見える。「ボク・ワタシ、今、咲いています」と言わんばかりのシャイニング感である。日曜の夜でも、明日(彼らにとってはステージとなろうが)職場へ行くのが楽しみで仕方がないのだろうか。コモンセンス、コンセンサス、アグリー、アジェンダ、ポリフェノール、ロキソプロフェン、ミノキシジル、サンリオピューロランドなどと言いたくて仕方がないのだろう。

 そのうような彼らを私は羨ましく思う。私は今は謂わば抜け殻である。出来ることなら、ずーっと本を読んでは居眠りし、居眠りしては本を読みしていたい。身体が冷えれば湯に浸かり、腹が減れば刺身でも食って、熱燗でもクイッと猪口を傾け、口内調味で舌鼓を打ちたい。どうせなら、道端で大金を拾いたい。交番へ届けようとしたら、ビラが挟まっていて「このお金は落としたのではなく置いたのです。あなた様へ差し上げます。大金持ちより」という、こないなことが書かれてあったらいいのに。とはいえ、言うている間にクリスマスがやって来て、あっという間に年の瀬である。まあそれまでの辛抱である。しかしながら、あと幾日の日曜の憂鬱を越えなねばならぬのだろうか。

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