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「思っていて」って何や / エッセイ

「僕はそれはちょっと違うと思っていて、云々」
「私は優先順位を見直すべきだと思っていて、云々」

 この「思っていて」という言葉が僕は嫌いである。一見するとこれといった特徴のない言葉だが実はそうではない。この言葉には自尊心と承認欲求が潜んでいるのである。自尊心と承認欲求から生じ出た言葉とも言える。「思うのですが」でも
「思います」でもなく、「思って『いて』」なのである。既に、なのである。既に思っていて、今もってそのことに対する疑念を進行形で抱いていており、自分はそのことに気づいているのだ、ということを主張している。一目置かれたい、ああ一目置かれたいと、鳴いているのである。
 会議や議論など、意見を発表する場面でよく耳にするようになった。普通であれば聞き流してしまうような何でもない言葉である。しかし、このような場面で何度となく聞いているうち、その言葉は輪郭を得て、いけすかない印象と共に立ち上がり、したり顔でほくそ笑む。

 この言葉は無関係な場所で同時多発したわけではないだろう。人は言葉を真似る。やはり意識してかしないでかは分からぬが、どこかで聞いたこの表現を真似たものであろう。会社や業界など、ある閉じた世界ではその中で特有の言葉や言い回しが多用されがちである。これまで出会った言葉に「そうゆうこと?」や「たちまち」がある。世間では一時から人の知識や教養に対して「アップデート」という言葉が多用され、「リテラシー」や「ローンチ」、「コミット」「アグリー」など数えればキリがない。そしてこのような自己啓発本の紙面を飾り立てる言葉を自分も使うことで、自分という人間のある種の持ち前を飾るが。しかしその実、金太郎飴である。

 YouTubeにもこのような鳴き真似が窺える。「していきたいと思います」というのがそれである。「開けていきたいと思います」「食べていきたいと思います」と鳴く。「開けたいと思います」「食べたいと思います」ではない。「開けたいと思います」はまだ開けるという動作からこの表現はわからなくもない。しかしYouTuberの用いるこれから何かをしようとする宣言はすべからく「していきたいと思います」なのであるから異様に響く。この言い回しをYouTuberであることの型として、知らず知らず認識しているのではないだろうか。ラーメン屋は腕を組んで写真を撮るのと何ら変わらない。その型に自らをハメることで、その憧れの人になるのである。多様なようで画一化され、ここにもまた金太郎飴。

 僕は前々から人と同じ鳴き声で鳴きたくはないと思っていて、だからこの点に留意しつつ、このあと次の投稿の原稿を書いていきたいと思う。

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