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事件 / エッセイ

 私は気性の荒い子供ではなかった。それでもそれなりに悪さをした。今思うと、とんでもないことをしたものだと恥じ入る。小学校低学年の頃だったろうか、同じマンションに住んでいた仲の良いS君という友達がいたが、その子の父親が所有する小豆色の乗用車が道路脇に停まっていた。私は落ちていた小石を拾って、その友達の名前を車体にのびのびと書ききった。名前の後ろに『号』と書いたか『ごう』と書いたか、それはそれは愉快満面で引っ掻いたのである。悪いことをしたという気は微塵もなかった。回れ右をすると、Y子ちゃん――これも同じマンションに住む友達の女の子だったが――がいた。一部始終を見ていたらしく、ぎょっとしていた。Y子ちゃんは「あー」と言ったが、その声音には批難の色が帯びていて、私はこの時はじめて、ドキリとした。彼女の弟も、姉の隣でこちらをじーっと見ていた。私は二人に向かって、「しー」と口元に人差し指を立てた。するとその弟は力強く、うん、と頷いて、姉にもそれを約束させるのだった。
 そのまま子供たち数人が寄って遊んでいると、暮れ方にS君の両親がパチンコ(近所では出入りしていることで有名であった)から帰って来た。早速ご両親は車体にある傷を発見し、忽ち大騒ぎになった。ただの引っ掻き傷であれば誰の仕業かおいそれとは分からなかったかもしれない。外部の人間が行きがかりにギッとやった可能性もあろう。しかし車の横っ腹には名前が書かれている。その拙い筆致とを勘案し、我が子の友達に違いない、と相成るのは当然だった。
 S君の母親は車体の傷をまじまじと見た。やがてふと顔を上げると、バラける子供たちを車の傍に集め、一人ずつアスファルトに『な』という字を書けと言う。S君の名前のうちの一文字が『な』であった。私は『な』が苦手である。満足いく『な』を書いたためしがなかった。とぼけたような、ぐずったような、情けない『な』なのである。その情けなさをS君の母親は探し出そうとしているのだった。
 共用部の花壇から軽石を渡された私は、いよいよ意を決し、アスファルトにわざと縦長の『な』を書いた。これがなかなか誤魔化せそうな『な』なのである。
 犯人ここにおらず。ということになり、カラスが鳴いたかは分からぬが「ほんじゃあ」と皆それぞれの家へと四散した。
 
 夕食を食べていると訪ねてくる人があり、S君のご両親だった。私はビクリとして聞き耳を立てた。箸は止まり、口の中の咀嚼物から味が消え、丸めた布を飲み込むようだった。玄関から聞こえてくる大人の低い声。不明瞭でうまく聞き取れなかったが、要するに「ネタはあがっている」ということだった。父の私を呼ぶ声に血の気が引き、もはやこれまで、とヨロヨロと玄関へと歩いて行った。
 塗装費用を弁償することになり、後日改めて父に連れられて謝罪に伺った。父は所謂昔気質で、人様への迷惑など言語道断。この件の雷は凄まじかった。私に落ちた父の雷がこればかりでないのは言うに及ばずである。
 
 子供の頃住んでいたマンション(マンションとは名ばかりで、アパートに毛が生えたようなもの)には沢山の子供が住んでいた。四階建てのマンションで、新館と旧館に分かれていた。新館といっても物心がついた頃には既に古く、旧館は更に酷いもので地盤沈下まで起こしていた。現代のマンションを『閉じている』と表現するならば、このマンションは『開いている』。関西には文化住宅(関東のそれとは別物)という質素で懐かしい集合住宅があるが、それに似た風通しの良さがここにもあった。
 どこの子供も家にいるのが退屈になれば、玄関を飛び出してマンションの前にある狭い敷地であれこれする。例えばボールをついたり、蹴ったり。するとその音に誘われて、どこからとなくいくらか子供が出てくる。学校の繋がりとは違い、下は鼻タレ小僧から上は偉ぶった中学生までばらばら。年長者はしたい遊びをするために、チビっ子をなだめたりすかしたりしなければならず、下は下で入れてくれないとビービー泣いた。それでも皆が一緒にいた。
 年長の友達からは良くも悪くも刺激を受けた。といっても、誰々の新曲がいいとか、ボールはこうやって蹴るんだとか、ジェルよりムースがいいとか、そんなところ。それから色気のあることなんかも言ってはいたが、私はどうもその手の話は苦手だった。
 一方、年下の子がいれば気まぐれに面倒を見たり、時にはほったらかしたりした。それでも泣きながらヨタヨタと追いかけてくるのだった。それを見てかわいそうと思っては手を引いて一緒に歩いてやった。上も下もごった煮で、あれは紛れもなく子供たちだけの世界だった。
 今の子供たちはどうなのだろう、とふと思った。私が知らないだけで今も変わらず子供の世界が存在しているのかもしれない。お姉ちゃん、お兄ちゃんに、妹、弟がついて回っているのだろうか。それならいいもんだろうな、と私は童心の頃を重ねて懐かしむ。
 
 年齢の上では私は大人になり、地元の大阪を離れて兵庫県へやって来た。
 炒った一粒の胡麻がパチンッとフライパンの外に弾け飛んだようなもの。友人知人にすれば私がどこへ姿をくらましたかなど知るよしもない。というか、思い出しもしていないだろう。
 この地には新しい仕事のために来た。家の近くにバーがあって、暫く経った頃にはそこでよく酒を飲むようになった。常連客の多い店だったが面子も数も日によってまちまち。六席ほどのカウンターだけの薄暗い店で、その日私は一番奥で飲んでいた。マスターとぼそぼそ話していると、一人の女性がそろりと緊張した風に入ってきた。彼女は白い上着を壁にかけると、入り口すぐの席に腰を下ろし、カクテルを頼んだ。見たことのない客だった。マスターも同じとみえ、暫くすると「この店、わかりにくかったでしょう?」と訊いていた。
 彼女はもともとはこの辺りの者ではない、というようなことを言った。マスターは女性にかかりっきりになった。
 雰囲気に慣れてきたのか、女性もあれこれと身の上を話はじめ、出身は大阪だと言う。私は同じだなと思って聞いていた。すると市も区も同じで、出た学校まで同じではないか。僕は思わず彼女に話かけた。そして幼少期に話が及んだ時、彼女が突として疑問符付きで私の名を呼んだのである。果たして彼女は嘗て車を引っ掻いた私に「あー」と批難を向けたY子ちゃんだった。
 私達は沢山の思い出を語り合った。幼なかった日のことも、成長したあとのことも。彼女は私より二つ年下で、私が中学にあがった頃から交友が薄れていったように思う。それは成長過程の必然だったのだろう。彼女は弟も元気でやっている教えてくれた。私に力強く、うんと頷いたあの弟君である。
 S君のご両親に知れたのはY子ちゃんの告発によるものだったということは、当時既にわかっていた。その時にも彼女の弟は、ちがうちがうと言い張っていたらしい。それを聞いた時、私は子供ながらに、いかに自分が愚かな阿呆かを思い知った。告発せざるを得ない状況に彼女を追い込み、その弟にはひたすら偽らせ続けたのである。
 彼女はカクテルに頬を赤らめ、結婚してこの地へ来ていると言った。弟ももうすぐ結婚するのだという。この夜、あの事件の話はしなかった。

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