見出し画像

へまをする / エッセイ

 私はへまをする自覚がある。あとから、なぜこんなことを間違えたのかと不思議でならない、ことはない。生来の面倒くさがりな性が顔を出したのである。詰めが甘いのである。私は関心のないものには矢張り関心がない。いい加減に済ませてしまいたい思いがある。出来ることなら、出来ている風情を決め込んでいい加減に済ませてしまいたい。そうして、いい加減に済ませてしまおうと思っていい加減にやってしまうと、やっぱりへまをしている、という次第である。
 しかし、このような私も関心のあることについてはとことんである。それはそれは隙間時間をも惜しむことはない。昼寝時間と放心時間の間にある僅かな隙間時間までコトの修練にあてるほどである。今も寝坊の仕方を探求しているが、時間が足りないので仕方なく休日の五、六分を割く決断をしたばかりである。好きなことに対しては私は稀有な拘りを見せ、とことんまで物事に詰め寄る。しかし、はて、このような場合でもへまをしているなと今気が付いた。ということは、私はへま平常からしているのか。

 ならばそれもよかろう。何も恐れることはない。人間なんてものはそんなものなのだ。それにへまをするのは私だけではないはずだし、私のへまなんてかわいいもので物の数ではないだろう。たかだか取引先の売り上げデータを消去してしまったり、全く不必要な部品を大量に誤発注した程度である。これらの経験を経て、私はこの程度であれば自分の財布の中身は十円だって減らないことを学んだ。その意味では缶コーヒーを買う方が十倍程もダメージがあると言える。このように考えると取引先の売り上げデータ削除の一件など屁の河童ではないか。世の人はもっと大きなへまをしていることだろう。しかしこう言っておいて何だが、私は人と比較するのが好きではない。だからへまの大小については脇へ置いておくことにしよう。

 先ほども触れたが、人はへまをするものである。へまをする側からもう一つ言わせていただくと、人類は「へま」が尊い行動であるということをもっと知るべきなのである。へまは悪でへまをしないのは正義というのは必ずしも正しくないのである。そりゃあ手術中に患者の開いた腹の中に器具を忘れてしまったり、観光バスを運転中に居眠りなんてことは大惨事であるから、このような類のことはいけないことに違いない。しかしそうではなく、人間らしい日常のへまはもっと許容するべきなのである。誰かのへまを目の当たりにすると、人は「おいおい、しっかりやれよ」という態度をとる。少々大き目のへまをするとこっぴどく絞られる。へまをした当の本人が身をもってコトの重大性を誰よりも感じ、自暴自棄になっている最中に追い打ちをかけているのもおかしなことなのだ。凹んでいる相手を責めたり説き伏せたりしても何の意味もないことは明白なのに、それでも懇々と諭そうとする。ここで言ってやりたい。あなたもへまをすると。立場上うやむやにしたり自分で隠蔽できているだけで、あなたもへまをしているだろう、と。まあそれはそれとして、何よりへまは起こるものである。しかしへましない方がよい場面では勿論しないほうがよいとは思う。ただ、へまは人間らしさである、ということは心にとめておきたいと思うのである。へまは構えた人の心を解し、笑みを誘う力がある。へまは争いとは対極のもので、愛すべきへま、なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?