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学びについて / エッセイ

 一生学びというが、その通りだと思う。それは学問に限らず、趣味についても生活についても、汎ゆることが生涯を通じた学びである。
『学び』というと、窮屈な印象をまず受けてしまう方もおいでだろうが、ここで言いたい『学び』はそうではない。趣味にしても何にしても、ただひたすらの苦行としての修練ではなく、楽しみつつも、生涯の学びであるということである。生涯かかっても極まるものではない。そもそも極めるという次元にない。同じ事柄であっても一方向ではなく、それぞれに多様な色彩があるものである。だからそこ深く、生涯それを追求することができ、楽しめるのである。

 学習曲線というものがある。何かを学びはじめてからあとの学習度合いを時間軸上で表したものである。その傾向としては、学びはじめは新たな世界への突入であり、汎ゆるものごとが目新しく、その分野・世界の概念に不慣れなことから学習度合いは少ない。なだらかな上昇をみせつつも横ばいである。しかし、十分なある期間を過ぎると指数関数的な上昇カーブを示す。指数関数というと、昨今の情勢から言えば感染症の広がりに見ることができる。いわば倍々ゲームである。学習においても、よくよく考えるとその増加の性質は納得できるだろう。小さな学びが増えてくるごとに、それらが有機的なつながりを得て、新たな学びの下支えとなる。そうして学びも指数関数的に増加してゆく。そして、更に学びが熟してくると、再び停滞期に入る。とはいえ、この領域では基本的にベテランであろうと思われる。おおかたを学び、あとは更に難解なことがらや、個人的に不得手なものが残っているための停滞であるといえる。これが実際の学習曲線である。

『実際』とはそうでないものを示唆する。つまり、実際でない曲線。学びの主観的な印象曲線である。これは何かを学びはじめるとまま起こる現象であるが、その領域の広さや深みをまだ腹落ちして知らないために、これまで未知であった専門的なことがらを学んだ(知ったというほうが適切)ために、そのことを過大に受け止めてしまう、つまりその分野において多くのことを学んだ気になってしまうのである。実際の学習曲線でいう冒頭のゆるやかな上昇(ほぼ横ばい)の段階で、主観的な印象の学習曲線は異様なほどにはねあがる。謂わば、調子に乗る段階である。自分自身にもそのような経験があるからよくわかる。その道のプロにさえ、立ち向かおうとするほどの錯誤である。そのような期間がしばらく続くが、当然ながらそのまま難なくやっていけるほど現実は甘くはない。自分の実力(といえるほども育っていない)では到底間に合わない課題に直面する。伸び切った鼻をへし折られる。それも容易く、ポキンと。その音はどこまでも細く乾いている。跳ね上がっていた勘違い学習曲線の勾配が急で、そのピークが高ければ高いほどこの落差は大きく、落下の加速度と相まって地面に衝突すれば、めり込むこと必至。

 と、こう書いたが、この少々客観的目線を欠いた幼気な時期というものを僕は大切にも思う。勿論、はじめから謙虚な姿勢で学ぶことができればそれに越したことはないが、この時期にはこの時期の良い点もある。学びというものはやはり軽々しいものではなく、少なからず苦が伴う。苦手意識があると、やはり伸び悩むことも考え得る。調子づくことで余裕をこいて怠惰へと流れることもないことはないが、調子づくことで得意になってその分野に馴染んでいくということはある。その段階で好きになれるということもあるのである。その後、現実に挫かれることも考えられるが、それはそれとして、このあと調子づいてやってくる可能性に満ちた無数の若き後輩たちの気持ちも分かろうというもの。イキったばかりの態度だと断ずるばかりではなく、こういうのも有りなのである。このような多少の愚かしさもまた人情というものであろう。年長の我々はそういう時期なんだなと見ていればよいと僕は思う。もし調和を乱すようならそのことに助言すればよいし、目に余るようであればそのときに話せばよい。嬉々として調子づいているのもかわいいものではないかと思うのである。やがて気づく時がくる。その時に「ほら見たことか」と冷ややかな眼差しを向けるのでは自分もよほど未熟と自覚したい。挫かれた痛みは本人が誰よりも痛感しているはずである。そのようなときに、ケアできる器量は仕事なにより人間としてのものであり、そんな時にこそ度量をみせられる人、ソウイウモノニ ワタシハナリタイ。

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