「恒産・恒心」の視点で考える"異次元"の少子化対策
現在休職の身で物理的には暇なので、政治監視だけは怠らないようにしているこの頃である。
そんな中で先日、仕事に忙殺されていたらきっと気付かぬ間に決定していたであろう恐ろしい「政策(と呼ぶにもバカバカしい愚策)」についての情報を得てしまって身震いした。
給付と見せかけて結局はそれ、増税じゃん?
将来的に子育てを行う親目線で考えればもちろん断固反対である。
加えて、教育者としての立場から将来出会うであろう子供の一生のことを考えた時に、猛烈な悲しさを覚えた。
「恒産無ければ、因りて恒心無し」という言葉がある。孟子の言葉で、「生活が安定するような一定の職業に就いていなければ、道義心などもてない」という意味である。同様に、「管鮑の交わり」の故事で知られる管仲の言葉にも「倉廩(そうりん)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」というものがある。
どちらも、「生活基盤が整ってはじめて善い心をもちうる」といった意味合いである。
少し拡張すれば、「人は、金銭的収入により生活が安定し衣食住に満足できる状態にあってはじめて、善く生きることを志向する心をもち、学問をし、創造力をもつことができる」ともいえよう。
生活の安定に向けて心をすり減らす家庭で育つ子供は、広い心をもって学ぶということが果たしてできるのだろうか。
生活が安定しなければ心が荒む。荒んだ心で学んだところで、目先の短期的な利益しか考えなくなる。そうすると、短期的に見て役に立たないことやすぐには利益を得られそうにないことに取り組むことに、臆病になる。(「こと」が連続してしまって腹立たしいが悪しからず)
「貧すれば鈍する」とも言われるが、この愚策は、子供から「人間らしさ」「長期的な幸福の視点」を奪いかねないと私は思うのである。
国が子供に投資しないという選択をとることで、世界と比較した国の科学研究、技術、競争力などの衰退がもたらされ、ゆくゆくは亡国の一途を辿る(競争力云々の前に誰も子供を産み育てなくなるだろうけど)ということは認識されているのだろうか
孟子や管仲をはじめ、歴史上の思想家や(名)宰相たちは君主の私欲を諫め、民の生活を豊かにするのが第一だと進言してきた。「恒産・恒心」の考え方は昔と今とではさほど変わらないだろう。昨今のこの世の中のありさまを見渡せば、人々の心のさまが如実に反映されているのだろうと推測できる。そのような心のさまは、「自己責任」では片付けられない、「為政者の民への思いやり(の無さ)」を反映している。
さすがに、声を上げないと終わりだと思ったので以下の署名に賛同しました
どうか是非
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