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傲慢で醜い大人の話

ふと自分の傲慢さや醜さに驚くことがある。

詳しいシチュエーションまでは言えないが、
たまにその場面に巡り合う。

いやしょっちゅうかもしれない。

そして醜い澱んだ自分に辿り着いた瞬間に我に帰る。

お前が言ってんなよ、とマトモな自分が言い放つ。

もうないようにしようと思っていても、
また問題児の自分がひょいと出てきてはすぐ引っ込む。

もちろん自分ができた人間ではないことは百も承知だし、完璧な人間を目指そうだなんて1mmも思っていない。

しかしその繰り返しで自分で自分の首を絞めているのもまた事実。

でも、びっくりするのだ。

あまりにも他人の小さな発言や表情を見て、
心の底では突如難癖をつけている自分に。

そしてそんな自分がいることに怖さすら覚える。

それは自分が典型的な完璧主義であるが為に、
他人にも完璧を求めてしまう幼さから来ているんじゃないかと考える。

自分は何度も言うように完璧な人間でもなければ、
できた人間ですらない。

整った容姿もなければ、勉強なんてできないし、
運動能力もはっきり言って無に等しい。

メンタルもヘタレという言葉が似合うくらい貧弱だ。

自分を棚に上げることに関しては完璧なのかもしれないが。



小さい頃から他人の行動や言動をずっと見ていた。

当時好きだった子や苦手だった子も、
先生も家族も通りかかった人たちも観察していた。

するといつの頃からか、
顔色を窺ってから行動するような子供になっていた。

それと同時に良い所も悪い所もすぐに感知して、
見つけるようになってしまった。

子供ながらに理不尽に怒る大人に子供だなと思った。

子供ながらに愚痴をこぼす大人に子供だなと思った。

子供ながらに物事をその時でしか見ていない大人に子供だなと思った。

自分の中で大人の選別が始まっていた。

この人は大人で、この人は大人ではない大人。

そうやって脳内で仕分け作業をしていく中で、
今の歪なセンサーが出来上がった。

大人は全員中身まで大人ではなく、
大人になりきれず、そのまま歳を取ってしまった人の方が多いと感じた。

そこから大人になりたくないと思った。

大人にラベリングされて、
中身はまるっきり成長してない大人になるのなら、
一生子供のままでいたいと思った。

そして年齢は大人に達した辺りからようやく気づいた。

達観視できている大人だと自分で思い込んでいた
子供の頃の自分が一番子供で、幼稚で、未熟だった。

こんなことを言うのは人生の先輩に恐れ多いが、
それを自覚できた今は、大人に片足突っ込んだと言って良いのかもしれない。

それを大人になって良しとする基準に達したと考えている自分の思考すら危ないとすら、今思ってしまった。

突発的に人が変わったように
豹変する自分に蓋をして生きている。

理不尽だなと思うことを理不尽だなと
素直に言えずに生きている。

無理に前向きな言葉に転換して、
自分を奮い立たせている人を見ると、
何だかモヤモヤする自分を押し殺して生きている。

自分の器の小ささに驚くし、
尊敬する人の器の大きさにまた尊敬する。

実はその尊敬する人も、
僕みたいに器の小さい人なのかもしれない。

そう思うとどこか救われる気がした。

ガクガク震える足がそれで、
ようやく立てるようになるなら充分すぎる理由だ。



ふと自分の傲慢さや醜さに驚くことがある。

でもそれが自分だけじゃないとしたら。

そうだとするなら、嬉しいようで悲しくもある。

その考えすら傲慢で醜いのかもしれない。

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