見出し画像

頭より先に口が動く

最近特に褒められることが多くなった。


それは自分の楽曲もそうだけど、僕自身の性格や言葉、この前はこのnoteさえも褒めてくれた方もいる。

褒められるたびにその瞬間、
世界で一番幸せなのは自分だと思ってしまう。

そして新鮮な気持ちでその言葉を受け止める。

とんでもなくアレなニヤケ顔を浮かべるのと同時に、
会ったら大変なことなるんだろうと想像しては戦慄してしまう。


褒められることが多くなったと同時に、僕も好きだと思った人に褒めることが多くなったように感じる。

でもそれがごく自然で褒めたという感覚すらない。

言わば褒めのフロー状態を生み出している。

後になって僕の言葉を受け取ってくれた方が

「褒めても何も出ませんよ」とか

「いやぁ嬉しい」とか

照れたような声色で言葉に乗せて耳に届く。

気づけば口から言葉が出ているのだ。

それが凄いだろとドヤ顔で言いたいわけじゃなく、
とてもこの感覚が不思議でたまらない。

頭より先に身体が動く


僕は運動が出来る方ではないけど、
スポーツ選手や運動が得意な人は経験したことがあるらしい。

それと同じなのかなと思った。

頭より先に言葉が口から出る

見方を変えると、ただのオカルト現象だ。

それで他人を傷つける場合だってある。

僕自身言った後になって「あれ失礼だったよなぁ」とか
「あれで傷ついたりしてないかな」とか全く解決しないひとり反省会で夜は盛り上がる。

けど昔から「褒める」ことって、
割とカロリーが高いものっていう認識があった。

誰かを褒める作業は、
自分をまず引っ込める作業から始まるから。

褒めるとはサラリーマンが上司に接待するみたいなものを想像していた。

自分を殺して、相手を敬う作業。


そう考えると褒め合うって、
とてつもない相互作用を生み出すなと思った。

自分を殺して、相手を敬う作業。

ならば相手を褒めて自分を殺すなら、
相手だって自分を褒めてくれるかもしれない。

もちろん自分を褒めてくれる言葉を常に待っているわけではないが、そうするとお互い報われて幸せになるよなと感じた。

褒めの言葉を直接もらえなかったとしても、
相手は僕のことを好意的に思ってくれる。

褒めの言葉がぞんざいでなければ。

そう考えると、褒めることって結果的に良いことしか生み出さない作業だなと思う。

そして何より褒めた自分すらも肯定できる。

他人の楽曲なんて聴かなくていい。


僕はゼロカラコンピという企画に入る前、正直そう思っていた。

でもそれと同時にわかっていた。

他人の楽曲を聴かずして、自分の曲なんて聴いてもらえない。

まずは自分が与える。

今思えば僕は誰かの曲を褒めただけで、
ここまで来たと言っても過言ではないかもしれない。
(まだまだではあるけど)


頭より先に言葉が口から出る



今それがプラスの面で自然に出来ているうちに、たくさんの人を褒めたいと強く思う。

最近褒めに褒めて、自分の周りだけでも幸せにしたいという、危ない宗教団体の教祖みたいな思想を持ち始めた。

ギブアンドギブ。


自分を褒めてくれる言葉は後からついてくる。

それまで与える側に徹する。

そして褒めてくれたその人と言葉をいつまでも忘れない。

僕に甘ったれた天狗になる時間すらない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?