グラデーション

グラデーションってきれいだと思う。

自然界のグラデーションは、私を小さいころから魅了してきた。
朝焼けや夕焼け、海の深さによる色の濃淡、花びら一枚の中の色の違い。濃くても薄くてもそれぞれの色が美しくて、それらが連続的に変化していく様子を見るのが大好きだった。


グラデーションが美しいのは、自然界だけではない。人間社会も一緒だ。世の中にはたくさんの人が存在していて、一人ひとり違った外見や性格や考え方をしている。それは右翼か左翼か、オトコかオンナか、高学歴か低学歴か、かわいいかぶさいくか、文系か理系か、金持ちか貧乏か、勝ち組か負け組か、、、と2分化できるものではなく、1つ1つの項目についてカラーサンプルのグラデーションが数直線から円になり、円がさらに球になったみたいな感じだと思う。


様々なパラメーターでグラデーションを持つ人間同士が関わり理解しあうことは、まあ難しい。遺伝子も、教育環境も享受する娯楽も、誰一人として全く同じ人なんていない。しかし多様性多様性といいつつ、私たちはなんだかんだ他人の自分と違うポイントを見つけては不快になったりする。しかも自分との相違点が気に入らないときに厄介なのは、その人の気に入らない部分をカテゴリーとして見て、そのカテゴリー全体を忌み嫌う現象だ。(Twitterなどでよく見られる。)それを見ると「みんななかよくしようよ~」と思ってしまう。でも日本のいわゆる「まえならえ教育」では、たぶん出る杭は打たれるというか、自分の属している「一般」に当てはまらないものは正しくないので叩いてつぶしてしまっていいという価値観がはびこっているのだろう。

そしてまた、その価値観の異質さに気づいている人がどんなにそれを訴えても、「はい海外かぶれ、ここは日本だし」とか「どうせ一般社会に適応できないやつの戯言だ」みたいなこと言う人、いますよね。言わないにしても、そういうこと思ってるんだろうなとわかる人。あとは、マイノリティが存在すらしないかのように話す人。(これは無知からくるのでしょうがないといえばしょうがないですが)


そういった人を目にするたびに私は疲れ切ってしまうし、どんなに不快になってもじゃあそういう人たちに対して攻撃的な発言をしていいのかと自問すると必ず答えはNOだし、やっぱり生きていく上で関わらなければならない人の中には少なからずそういう人はいるから無視もできない、、、、


どんどん私の悩み事の垂れ流しになってきた、失礼しました。
じゃあどうするかと言われたら、たぶん自分の身近なものや人の多様な特徴を受け入れて誇りに思って、それぞれを尊敬して大切にしていくしかないのだ、という何ともシンプルな(新規性のない)答えになってしまう。でもこれが一番なのかな。変にとがらず、博愛の精神で。




やはり何が言いたいのかはっきりしない記事になってしまいました。
ただ私は、人に関してその人が「いいひと」である限り如何なるマイノリティ要素を持っていても仲良くしたいと思うし、大切にしたいです。


ひえーーーー、いい子ちゃん発動。


おわり。



P.S. グラデーションで物事を見た方が絶対より楽に生きられる気がします。
  ↑これも「頑張る」と「楽する」の二項対立で読まないでくださいね。






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