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社会人気分

 中学・高校生だったとき、定期テストが近づいてくるとかならず教室のどこかから「やばい今回まじで勉強してない」「いやノー勉でいけるでしょ」「ノー勉はつよい」「今回はやばい」みたいな話し声が聞こえてきた。僕は中学生のときは勉強ができたからこの手の会話があまり気にならなかったのだが、高校生になって勉強をしなくなると友達のこういう発言が気になりはじめた。こういう台詞はけっこうちゃんと勉強をしている人に限って言ってたりするので、勉強ができない立場からするとなんだか騙されたような感じがするのだ。

 「働きたくない」という言葉を聞いて、このときの感じを思い出した。「働きたくない」って言える人たちはじっさいはみんなちゃんと働いていて、いろいろと折り合いをつけながらもそれなりにうまくやっているような気がする。だけど僕は大学を卒業して2年半就職をしていなくて、「働きたくない」と言えるほど真面目に働くということを経験していないし、働くということをわかってもいないような気がする。

 しっかり仕事をして休日を楽しんだり、目標をもって活動をしているかつての同級生たちを僻むことでなんとか自分を慰めながら、僕はいまだに学生時代の延長のような無為で退屈な日々を過ごしてしまう。

 実際に働かない期間が1ヶ月も続けば、はじめは一人の時間を満喫していてもだんだん暇をもてあますようになり、お金もなくなってくるし、漠然と不安な気持ちになってくる。ただでさえこの夏は暑くて、朝ゆっくりと起きてカーテンを開ければ陽射しの明るさにうんざりし、汗をかいて一日一回風呂に入らなければならなくなるのが面倒だからエアコンの効いた部屋でじっとしているが、何をする気も起きず昼寝をし、近所のドラッグストアにコバエアースを買いに行くだけで精一杯の日などもあって、生活する気力がどんどん衰えていった。何もしなくても部屋には埃が溜まっていくし洗濯物は増えるし、水回りは汚れるし家賃はかかる。暑い夏を一人きりで過ごすのは精神衛生上あまりよろしくないと思った。ほんとうは海とかプールに行ったり爽やかな汗をかいてかき氷を食べたり、友達とドライブしたり花火を見たりしたかったけど、暑すぎたし友達もいなかったので何もできなかった。気がついたら求人サイトに登録して大学の入学式用に買った唯一のスーツを着て自撮りをして仕事を探していた。それで9月から初めて会社に就職することになった。いまのところ問題なくその会社に通っている。大手町で千代田線から東西線に乗り換える地下の通路を歩くとき、会社勤めの人というのは毎朝こんなにたくさんの人たちとすれちがっているんだなどと新鮮な気持ちになる。

 9月になっても依然として最高気温が30度を超えるような日が続いていて、まだ朝だというのに真昼間みたいにつよい陽射しに目を細めながら駅へと向かう自転車に乗っていると、一瞬、涼しい空気の固まりを通過した。その肌触りと、その空気に混じっていた季節の変わり目の匂いにつられてふとなつかしさを覚えた。——夏休み明けの学校。夏休みの宿題を鞄に入れて通学路を歩く。夏のあいだ人の居なかった校舎のひんやりとした埃っぽい空気。運動会の練習なんかが始まろうとしている雰囲気——。少し様子が変わったような感じもしたし、それまでと何も変わらない毎日の続きが始まるような感じもした。髪を切っていたり、肌が焼けていたり、背が伸びたり痩せたりしているクラスメイトもいた。自分も含めて誰もが何かしら変わっているはずなのに、全体はまるで何も変わっていないかのように、いつもと同じような足音や話し声が日常を埋め尽くしていった。夏休み明けの学校の風景がさまざまに去来したあとで、僕はふと、学校が好きだったのだな、と思った。

 学校。いつからか、学校なんてものは窮屈でいびつな空間であって、そうした閉鎖的な環境からはみ出したり、馴染めなかったりする人こそが真の独立した大人になるのだと思っていた。だからできる子を演じて誰かに褒められることで承認欲求を満たしていた子供のころの自分を否定して乗り越えなければいけないのだと思っていた。だけど当時の僕は、どう思い返してみても、学校というものが窮屈でいびつな空間だなんて思ってはいなかった。どちらかといえば単調な日々、ルールが整えられた均一的な空間に順応しつつ、小さな変化や工夫を見つけてそれなりにたのしんでいるようなタイプだった。

 会社もまた、学校に似ている。毎日同じ時間に同じ人と顔を合わせ、同じ座席につく。ひさしぶりにそのような環境に身を置いてなつかしさを覚える。服装とかカバンとか文房具とか、ちょっとした会話とか、服の皺のつき方とか、笑い方とか、そういうところにだけ、人の個性が現れる。その安心感も似ている。そのサイズ感のなかでの個性。そのサイズ感のなかでのルール。そのサイズ感のなかでの人間関係。そのサイズ感というのは言い換えれば〈学校の倫理〉みたいなものだ。

 就職が決まったことを母親づてに聞いた父親から、おめでとうというメッセージとともに「ありがとうございます を1日30回 言おう」とLINEで送られてきた。たぶんジョークでもなく本気でこれを言っているのだと思うとただただ閉口してしまったのだが、この感じがまさに〈学校の倫理〉だと思った。世の中の大半の大人たちというのは名ばかりは社会人ではあるけれど、いまだにそのような〈学校の倫理〉のなかで生きているのではないだろうか。そう思うと、毎朝地下鉄ですれちがう勤め人たちにも、TVで質疑に応じる我が国の首相にも、バラエティ番組で面白くもないのに笑っている芸能人たちにも、量産型のテレビドラマや商業映画における俳優の演技にも、その表情や発言の背後にそれぞれの〈学校の倫理〉の存在を感じる。

 多くの人は学校を卒業してもいまだに学校と同じような場所に身を置き、そのサイズ感のなかで生活をしている。学校は社会の縮図だ、みたいな言い方があるけれどそうではなくて、学校は大人になっても形を変えて続いていて、それらやそれらに属さない個人などをひっくるめた総体として社会というものがあるだけなのだ。しかし自分のいる場所がいまだに学校と同じような場所であることに気づかず、それが社会なのだと思い込んでいる人たちがなんと多いことだろうか。むしろそうではない人がいるのだろうか。社会人、というものはそもそも幻想なんじゃないかと思う。

 ——(学校の倫理における)民主主義。(学校の倫理における)正義。(学校の倫理における)友情。(学校の倫理における)恋愛。(学校の倫理における)夢や希望。(学校の倫理における)多様性。

 〈学校の倫理〉と〈社会の倫理〉の取り違いの問題は、こと日本においては根深いものだと思う。政治家は政界と有力支援者の中でだけ政治を行っているし、会社員は会社の中でだけ会社員をやっているし、友達どうしは友達どうしの中でだけ友達どうしをやっている。個人が〈社会の倫理〉に接する土壌がたぶん日本は乏しい。自分の所属する〈学校〉内の秩序を保つことには細心の注意を払うが、そこから外のことには無関心なのだ。日本人に政治を語るための語彙がないというのもほとんどの人にとって、政治は政治、ということになっているからだ。だけど日本においてはそれこそが政治として利用される。政治家たちはそれをわかっていて(そもそも学校制度を運用しているのも彼らなのだが)、都合よく責任の所在を曖昧にしながら、〈学校〉の中の権力者たちや慣習(アメリカとか経団連とか統一教会とか)だけに気を配りながら物事を進めようとしている。政治は政治、と放っておいていればそのうちに勝手にさまざまなことを決められかねない。

 日本にいて、なんとなくふつうに生きる分には〈学校の倫理〉だけに従っていればまずまず安泰が得られるのだろう。僕自身、〈学校の倫理〉にあわせて生活し思考することに慣れきっていて、結局そこに居場所もあるし、それがなければ生きていけないと思う。けれど同時に、昨今の政治の問題としても、個人の生き方の問題としても、それでほんとうにいいのだろうかと危機感も持っている。普通に生活しているだけで身辺を囲い込んでくる夥しい情報のなかから〈学校的なもの〉を注意深く見分けて排除していかなければ、あっという間に〈学校の倫理〉に取り込まれて支配されてしまうかもしれない。〈学校〉のなかに自分の居場所をつくっておくことも生きていく上で必要かもしれないが、その外側に〈社会〉があることを忘れてはいけないし、その外側を語る言葉や態度を身につけておかなければといけないと思う。

 教室や学校というサイズ感のなかで発されていた「勉強してない」という言葉がなぜか脳裏にこびりついていて、「働きたくない」と聞いたときに、同じような気持ちを思い出した。そのとき、勉強することが働くことに重なって、社会は学校だった。この気分は、この呪いは、いつまで続くのだろうか。〈学校の倫理〉の外側で、ものを考え、発言し、人と関わりたいと思う。

2023.10
嫌働舎発行『働きたくないvol.3』に寄せて
https://kendo-sha.booth.pm/

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