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「良い所」を探すとは

他人の「良い所(長所)」を探す/見つけることができるのは、大切な能力だと思う。他人の「悪い所(短所)」を見つけることが得意な人よりも、「良い所」を見つけられる人の方が、人間関係もうまくいきそうである。

しかし、人の「良い所」を探すとき、私たちは本当に、真の意味で「良い所」を探すことができているのだろうか。そもそも「良い所」ってなんだ?

「良い」とは何であろうか?
「良い」の定義が人それぞれ、あるいは状況に応じて違うなんていうのは、至極あたり前のことである。だからこそ、「長所であり短所」とか、「欠点であり個性」みたいな言い方が可能なのだろう。「良さ」とは見方を変えれば「悪さ」であり、「悪さ」もまた見方を変えれば「良さ」なのではないだろうか。「良い/悪い」というのは評価であり、その評価は文脈に応じて変化する。『鬼滅の刃』で「判断が遅い!」と炭治郎が叱られるのは、鬼との戦いという命のやり取りの文脈だからである。「判断に時間がかかる」ことと「判断に時間をかける」ことは、見かけ上は同じ現象であるが言い方が異なっている。前者の言い方は、優柔不断的な、ネガティブなイメージを伴っているように聞こえる。一方後者は、熟慮・熟考という意味合いでポジティブなイメージを伴うこともあるだろう。このように、「良い/悪い」とは決して絶対的な価値判断ではなく、文脈に応じた、相対的な価値判断である。

「所」とは何であろうか?
「良い所」というときの「所」は、「性質」あるいは「個性」のことであると思う。これが個性の話なら、それは本当に、「個」の「性質」なのだろうか。むしろそれは「個」のものではなく、「関係性」の中で露わになるものではなかろうか。「あの人の良い所は、細やかな気遣いだ」というとき、「細やかな気遣い」は他者関係の中で現出するものである。そして何が「細やかな気遣い」と解釈されるかは、関係を結ぶ他者によって異なる。加えて、「細やかな気遣い」を「良い/悪い」どのように判断するかも、関係を結ぶ他者に委ねられているだろう。あるいは関係を結ぶ他者によっては、それを「細やかな気遣い」とは思わず、「人としてあたり前の気遣い」や「超絶細やかな気遣い」として解釈するかもしれない。詰まるところ、「良い所」というときの「所」は、個人に属する絶対的な性質ではなく、関係性の中で相対的に立ち現れるものなのではないだろうか。

それから、もう一つ思うことがある。
私たちが他人の「良い所」を探すとき、「良い」を探しているのだろうか。あるいは「所」を探しているのか。

「良い」を探すとは?
「良い」を探すとき、出発点になるのは、「自分にとって」「~~~にとって」という文脈である。そして、その文脈における幾種類かの「良い」が列挙される。その「良い」の中から、目の前の他者に当てはめることができそうな「良い」を見つけるのが、「良い」を探すというやり方だ。

「所」を探すとは?
「所」を探すとき、出発点になるのは、目の前の他者との関係性であり、その他者のありのままの(「良い/悪い」の価値判断が絡まない)性質としての「所」である。そしてその「所」が「良い所」になり得る文脈を見つけることで、その「所」を「良い所」として理解する。これが「所」を探すやり方である。

いま一度、考えてみたい。
私たちは「良い所」を探すとき、「自分にとって」という文脈に縛られすぎてはいないだろうか。勿論、「自分にとって」という文脈を否定するわけではない。それは、「自分が」幸せに、あるいは心地よく生きていくためには必要なことだろうし、ストレスフリーに生きるためのテクニックでもある。
あるいは、その「自分にとって」を、「社会の大多数が思っていること」という文脈に溶け込ませて、勝手な多数決を取っていないか。多数決は、シンプルでわかり易く、理に適った合意形成の手段だが、多数決もまた「(絶対評価的に)良い」ものではなく、「(特定の文脈において)良い」ものである。「シンプルさ」「わかり易さ」「理に適うこと」これらもまた、常に「良い」ことではなく、特定の文脈において「良い」ことなのではないか。
私たちが他人の「良い所/悪い所」を見出すとき、あるいは何かについて「良い/悪いの価値判断」をするとき、そこには何かしらの文脈が横たわっているはずだ。その文脈に自覚的になり、必要に応じて操作することもまた、重要な能力の一つであり、時に私たちが幸福に生きることを手助けするようなテクニックであるような気がする。

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