【パリ五輪】「誹謗中傷」と「愛の鞭」
2024.08.08
私は怒っています。
先日、パリオリンピックの男子バレーボール準々決勝、日本vsイタリアの試合がありました。私もバレーボーラーの端くれとして、画面越しに熱狂しながら観戦しました。両チーム譲らない白熱の試合展開で、最後の最後まで、まさに手に汗握る一戦でした。結果はセットカウント2-3で日本はベスト8での敗退となりました。悔しい結果ではありましたが、それ以上に両チームのプレーに感動させられる、そんな試合でした。
しかし、試合を終えてみると、どうやら西田選手、小野寺選手に対して、誹謗中傷の声がSNS上で届いているようです。重要な場面でのミスを非難したり、パフォーマンスとは無関係に選手に対して否定的な声をあげたり。どうしてでしょうか。あの素晴らしい試合を見て、なお、選手を誹謗中傷できるその感覚が私にはどうもわかりませんでした。だからニュースを見てため息が出ましたし、怒りがこみ上げました。
*ここから先、私自身の日記として、誹謗中傷を「絶対的な悪」からずらして、価値中立的に見ようと試みています。私なりに注意を払いつつ書きましたが、それでも読んでいて気分を害することがあるかもしれません。
でも一度、落ち着いて考えてみると、今日の社会では「誹謗中傷」と認識されてしまうような声かけが、ひと昔前のスポーツ文化の中では、指導としてあたり前に行われていたのではないか、とも思えてきました。実際、中学生の頃に出場したバレーボールの地区大会で罵声が飛んでいた光景も、私の記憶には残っています。私自身は、「必要以上に強く厳しく言われなくても自分で反省して改善できるわ!」と思ってしまうタイプなので、この手の罵声チックな指導は苦手です。一方で、「強く厳しく言われないと人は変われない」「時には心を鬼にして、、、」というような指導方針を持っている人もいて、そういう指導をされる方が性に合っていると思う人もいると思います。みんながみんな罵声嫌いなわけではないのかもしれない、そう思います。
ここまで考えて、2つの問いが浮かんできました。
①私にとって「誹謗中傷」に見えているそれは、発信者本人にとってみれば「誹謗中傷」の意図など全くない、「愛の鞭」である可能性もあるのではないか?
②仮にそれが「愛の鞭」なのだとして、SNSというお互いの顔が直接見えない世界の中での「愛の鞭」とは、果たしてどういうものなのか?
一つずつ考えてみます。
①については、「誹謗中傷」に見えているものの中には「愛の鞭」が紛れていることもあるが、厳密に区別することは不可能、というのが答えではないでしょうか。場合によっては、同じ文言でも、受け手しだいで「誹謗中傷」になったり、「愛の鞭」になったり、することもあるのかもしれません。(とはいえ、相手の命を軽んじるような発言が、「愛の鞭」として受け取られることはないでしょうし、ここには明らかに程度の問題もあると思います。)
ただ、ここで私が重要だと考えているのは、「誹謗中傷」と「愛の鞭」の境界線は、実に曖昧である場合がある、ということです。
つづいて、②を考えます。
まず前提として、私個人的には、SNS上か否かに関わらず「愛の鞭」それ自体が苦手です。鞭で叩かれたら痛いので。たとえそれが、鞭を振る側にとっては「愛」なのだとしても、その鞭を甘んじて受け止める姿勢を取ることが、私はあまり上手にできません。「いや痛いんだけど!」と思ってしまいます。鞭を受け止めてやる必要もないと思っています。他人が他人に「愛の鞭」を振っているのを見ても、ゾッとしてしまいます。でもこれは、私が個人的に「愛の鞭」に苦手意識を持っているだけで、「愛の鞭」がまったく苦手でない人もいるでしょう。(得意な人がいるのかは、よくわかりませんが。)
次にSNSに話を移しますが、これはとても複雑です。SNSで誹謗中傷をしている人に対して私たちは、「安全圏から好き放題言っているヤツ」というイメージをしばしば重ねるのではないでしょうか。ここでいう「安全圏」とは、きっと「鞭」が届かないような距離感のことで、その意味で誹謗中傷をする人とされる人の間には、大きい距離が存在しているように見えます。
一方でSNSは、私たちの距離感を「安全圏」に移し遠ざけるものであると同時に、私たちの距離を近づけるものでもあります。地球の反対側の人とも秒単位で会話できる、その距離感もまたSNSの本質ではないでしょうか。
SNSは、私たちの距離感をバグらせてしまったのだと思います。距離感がバグった私たちは、時には安全圏に身を置いて遠くから「誹謗中傷」をするし、時には相手に急接近して至近距離から「愛の鞭」を振るうかもしれない。受け手側からすると、安全圏から発せられた「誹謗中傷」が至近距離からの「愛の鞭」に誤認されるかもしれないし、逆も然りです。SNSでの「愛の鞭」あるいは「誹謗中傷」は、私たちの身に生じた距離感のバグに乗じて、非常に複雑に現象しているように思えます。
他方で近頃の私たちは、「誹謗中傷」(に見えるもの)を「悪」に見なしがちである気がします。この悪に対する感覚は、多分間違っていない。不特定多数から飛んでくる数多の鋭利な言葉が、人の命を簡単に奪ってしまう光景を私たちはいくつも目にしてきました。相手が「不特定」であることも、「多数」であることも、SNSのとても恐ろしいところです。
ただ、先の議論にのっとれば、「誹謗中傷」は「愛の鞭」と表裏一体であるのかもしれない。私たちは「誹謗中傷」の恐ろしさに対する危機感と同程度の危機感を、「愛の鞭」が安易に「誹謗中傷」に読み換えられてしまうことにも向けなければならないのかもしれません。
今日に至って、「ハラスメント」という言葉もまた、「誹謗中傷」と同じくらい広まっています。「ハラスメント」も「誹謗中傷」と同じように、人の命を奪い得る恐ろしさを抱えています。しかし同時に、何でもかんでも「ハラスメント」になってしまいそうで、なんだか生きづらい世の中だと感じている人がいることも事実です。
「怒り」という感情も同じだと思います。「怒り」という感情は、「パワハラ」とか攻撃性のある「誹謗中傷」と、イメージを共有している。そして、そのイメージの共有があるから、最近の私たちは「怒り」を過度にコントロールしようとしている、そんな気もします。勿論、「怒り」に任せずに冷静にコミュニケーションを取ることはお互いが気持ちよく生きていく上で重要ですが、時には「怒り」に任せてコミュニケーションを取ることの方が重要である場面もあるのかもしれないとも思います。
ここで改めて断りますが、私は「誹謗中傷」「ハラスメント」には断固反対ですし、「怒り」は各々が、各々の責任でコントロールするべきだと思っています。
ただ、「誹謗中傷」や「ハラスメント」が社会問題化するこの時代に入り、人々は他者に対して向ける「怒り」に似た攻撃性を失いつつあるようにも感じます。もっと言えば、他者のためを思って振るっていた「愛の鞭」的な攻撃性を、失いつつある気がします。誹謗中傷が「誹謗中傷」になる前、ハラスメントが「ハラスメント」になる前、「怒り」という感情がコントロールを必要とするものになる前、それらが「愛の鞭」だと信じられていた頃、にも目を向けないといけないのかもしれない。そんなことも思います。
結語にかえて。
「喜怒哀楽」という四字熟語があります。最近、この四字熟語に「怒」が含まれていることを不思議に感じて、この記事を書きました。思えば私は、理性的に「怒る」ことはあっても、本能のままに「怒る」ということを、最近はしてこなかった気がします。ただ本能のままに「喜ぶ」「哀しむ」「楽しむ」ということは、している気がします。
「怒」という感情の価値って何でしょうか。
最近の私は「怒」を非生産性や不要な暴力性とばかり結び付けて、その価値を軽んじてきてしまった気がします。そんな自分への内省か、自戒か、そんな思いを込めて本記事を執筆しました。「怒り」という感情を飼い慣らして閉じ込めてしまうのではなく、上手に共存できるように。そんな生き方のことも考えてみたいと思います。
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