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助手席の余韻

(本作は3,918文字、読了におよそ7〜10分ほどいただきます)


 一秒にも満たない瞬間的な眠りから、男は目を覚ました。今どこで、何をしているのかを把握するまでに、そこから更にコンマ数秒を要した。その間も、奇跡的に車は正しく走り続けていたのだが……数分後、瞬時の浅い睡眠と覚醒を繰り返す男が操る自動車は、急なカーブへと差し掛かることになる。



 広太は、常磐道を都内へ向けて走っていた。丁度、福島から茨城へ入った辺りだろうか。ただでさえ照明が少なく、暗くて有名な高速道路。しかも、この時は横殴りの激しい風雨に加え、深夜三時という時間帯がその闇を更に深いものへと増長させていた。
 普段より大幅に狭められた視界には、ここ十分ぐらいの間、前後ともに車のライトは確認出来ないでいた。単独走行だ。その上、最高速で振幅するワイパーでも処理し切れないほどの大雨が、絶え間なく降り注いでいる。運転には通常以上の集中と緊張を伴うはずだが、反面、単調さと孤独感により、広太のあらゆる感覚は闇の中へと吸い込まれていくようだ。
 実際、広太は心身ともに疲弊を極めていた。
 サービスエリアの入り口が見えた時、一瞬休憩を取ることも考えたのだが、その時は「とにかく家に帰りたい」との思いを覆すほどの誘惑にはならず、そのまま通過してしまった。そのことを、今になって少し後悔し始めていた。

(オレ、実は死んでたりして……)
 広太は、ありきたりのミステリ小説のようなくだらない冗談を自分に投げ掛け、ほんの少しだけ表情を緩和させた。
(それにしても、全身の感覚が麻痺しているみたいだ……)
 惰性でハンドルを握り、惰性でアクセルを踏む。しかし、運転をしているという意識はない。頭も心もぼんやりとしている。起きているのか寝ているのか、自分でもよく分からない感覚。寝起き直後、或は眠りに入る直前……そんな感じに似ているのかもしれない。
 起きている時と眠っている時、必ず両者には境界線があるはずだが、不思議とその瞬間を認識したことがない。同じように、生と死の間にも境界線があるのだろうか?  あるとすれば、今のこの感じなのだろうか?  すっきりしない頭で、そんなことを考えながらも、広太は、やはり惰性でハンドルを握り続けた。



「広太が自分からシートベルト締めるなんて、珍しいじゃない?  いつもは私がどれだけ頼んでも、絶対にしてくれないくせに」
 助手席から、美奈子が話し掛けてきた。美奈子は、もう十年近くも同棲している恋人だ。しかし、「恋人」という単語が持つ正確な意味には、いつしか当てはまらなくなっている。
 何となくズルズルと一緒に暮らしてきただけの関係で、彼女に対する愛情なんてものは、とっくに風化していた。今も——見るまでもなく——傷み切った長い髪の先端を、退屈そうに指先で捏ねくり回しているに違いない。そんな姿、見たくもないし知りたくもない。広太が嫌う彼女の癖だ。なのに、きっとそうしているだろう……と分かってしまう自分に嫌気が差していた。
 そう言えば、今は美奈子の髪は何色に染めているのだろう?  一緒に暮らし、否応にも毎日顔を会わすのに、広太は美奈子の髪の色も覚えていなかった。ロングヘアーであることは憶えているが、現在はどのぐらいの長さなのかも分からない。髪に限らず、彼女の容姿にいつしか興味を持たなくなっていたのだ。結局、彼女はもう広太にとって「恋人」ではないのだろう。

「疲れてるんでしょ?」
「まぁな」
 広太は、不機嫌と苛立ちを隠すこともなく、ぶっきらぼうに答えた。
「少しぐらい休んだら?  こんな天気だし、事故るよ。さっき寝そうになってたでしょ?」
「大丈夫、あともう二時間足らずで首都高入るから。このまま行くよ」
「今日の広太、ちょっとおかしいわ。覇気がないと言うか、生気を奪われたみたいな顔してるわ」
「知ったこと言うな。疲れてるだけだろ」

(はぁ、いちいち鬱陶しい女だな……)
 小さな声でそう毒付くが、それは広太の計算通り雨音に掻き消され、美奈子の耳には届かなかったようだ。
 もう、この女との潮時は、とっくの昔に過ぎてしまったな……もっと早い段階で、別れておくべきだった……毎日のように、広太は同じことを考えてしまう。しかし、今更別れ話を切り出したら……その後に発生するであろう猥雑で面倒な修羅場を想像するだけで、広太はどうしても尻込みしてしまうのだ。
 そして、そのままズルズルと……うんざりしつつも、どうしても別れ話は切り出せないでいた。先送りすればする程、別れにくくなると理解しているのに。

「やっぱり変よ。心ここにあらずと言うか、寝ぼけてる感じ。そのくせイライラしてるし。私、広太のことなら何でも分かるもん」
「そんなことない。それに、ちゃんと起きてるから心配しなくていいって」
 そう言いつつも……果たして、本当に起きていると言えるのだろうか?  広太には、自信がなかった。  
 いや、オレは起きているし、現に運転しているじゃないか……広太は、改めて自答してみる。そう、間違いなく起きていることは分かっているのだが、頭も心も感情も感覚も、全ての焦点がピンボケしていることは事実のようだ。何もかもが、ふわふわと浮遊しているような感じだ。
 それにプラスして、広太は、言葉に出来ない不気味な違和感が纏わり付いているのを感じていた。麻痺した感覚の中で、唯一感じる得体の知れない妙な違和感。何かがおかしい気がする……が、その正体は掴めないでいた。いや、何か肝心なことを忘れているような気もした。しかし、思い出そうとしても、記憶の隙間からすり抜けてしまうのだ。

「広太のことなら何でも分かるの」
 美奈子は、同じセリフを繰り返した。これも彼女の癖だ。どんなセリフでも、二回目を発する時は決まって口先を少し尖らせ、拗ねたように、そして微かに甘えたように口にするのだ。最初は、普段と違う口振りに、そのギャップから可愛いと感じた癖。クールでサバサバしたイメージで通ってる美奈子が、広太にだけ見せる可愛いらしい一面だ。しかし、今では、その癖でさえ、うざったくしか思えなくなっている。どうやら、人間の心にも経年変化は起きるらしい。

「でも、今日の広太は、私にも分からなかったわ」  
「何のことだ?」  
「何のことって……大丈夫?  今日のこと、覚えてないの?  私は……ごめん、ハッキリ言うけど、あんな広太は見たくなかったわ」  
「今日……?」
(そう言えば、今日……いや、もう昨日だな……は、美奈子と何処に出掛けていたのだろうか?  あぁ、ダメだ、思い出せない……)
 広太は、自分が心底疲れ切っていることを自覚した。

(美奈子の言う通り、ちょっと休むべきなのか?)
(そもそも、何故急いでるんだ?  明日は、オレも美奈子も仕事が休みのはず……だから泊まっていく予定だったのでは?)
(アレ?  今、何処を走ってるんだ?  何処に向かってるんだ?)
(本当に、今、オレが運転しているのか?)
(今まで、運転してきたのか?)
(オレ、本当に起きてるのか?)
(本当に生きてるのか?)

「結局、広太は、もう私のことどうでもよくなったってことだよね?  それならそうと、もっと早く言ってくれれば……少なくとも、あんなことにはならなかったのにね」
「さっきから、何が言いたいんだ?」
「広太……可哀想に……あなた、本当にどうかしているよ。何も覚えてないの?  しっかりして。ちゃんと目を覚ましなよ。このままだと、本当に事故を起こすわ」
「だから、ちゃんと起きてるって言ってるだろう」
「もう、何一人でカリカリしてるの」
「うるせぇな、ちょっと疲れてるだけだって言ってんだろ」
「いいえ、あなた、半分寝呆けてる!  広太のことは何でも分かるの」
「もう、それやめろ。お前は何も分かってない!」
「……えぇ、そうね……確かに分かってなかったね。何でも分かってるつもりだったけど……長年一緒にいても、人間って分からないこと、まだまだあるものね」
「どうした?  急にしおらしくなって」
「じゃあ、分かってないから聞くけどね……どうしてあんなことしたの?  私には、理解できなかったわ」
「オレが何をしたって言うんだ?」
「こっちが聞きたいわ。悲しくなっちゃった」
「だから、俺が何をしたのかって聞いてんだ」
「広太……本当に分からないの?  あなたね……今日、私を殺して埋めたでしょ?」
「えっ?」
 広太はハッと全てを思い出し、左を向いた。誰もいない、助手席の方を……

 外の雨と風は、弱まる気配すらない。エンジン音と自然のノイズが奇跡的な調和を保ち、違和感なく闇に包み込まれたまま、車は急なカーブに差し掛かろうとしていた。



「どう思う?」
「こんな時間、こんな天気、しかも一人で運転……典型的な居眠り運転ですよね?」
「まぁ、間違いないだろうな。急ハンドルを切った形跡もないし、ブレーキ痕もない。そのままのスピードで真っ直ぐに突っ込んでるな」
「それにしても寒いですね……運転手の男性は、即死だったそうです」
「そうか……気の毒に」
「先輩、さっき気になることがあるって言ってましたよね?」
「いや、大したことじゃない。でも、そうか、死んじゃったんなら聞けないもんな……」
「教えて下さいよ。事故の原因が他にあるってことですか?」
「いや、そうじゃない……でも、おかしいんだ。腑に落ちん」
「もぉ、先輩って、意地悪な人だったんですね」
「分かったよ、教えてやるよ、お前もしつこいな」
「仕事熱心と言ってください。で、何が気になるんです?」
「助手席だけどな、見たところ、荷物を固定していたわけではないのだがな……シートベルトがしてあったんだよな……」